【小説】かぐや姫
「お母さん、なんでかぐや姫は月に帰りたかったの?」
夜の8時。私とお母さんが言葉を交わす1日の終わりの時間。
ポンポンと私のお腹を撫でるようにさすりながら、いつもお母さんは昔の物語を読んでくれた。
定番の浦島太郎から、私の大好きなグリとグラ。そしてここ最近のお気に入りはかぐや姫だ。
「なんでっていってもねぇ、物語だから。」
お母さんは毎日朗読しているにも関わらず、何の関心もないように一言呟くと続けてこう言った。
「かぐや姫はお家に帰りたかったのよ。やっぱり良いでしょ。自分のおうちは。」
ポンポン、、、ポン。
母との記憶はここまでだ。
あの時の母の手はリズムがわからなくなった振り子のように不自然に私のお腹を撫でていた。今になって、それが鮮明に思い出される。
小学校の入学式を迎える前日、母は一言置き手紙を残していなくなった。
-ごめんなさい。元の生活に戻りたい。
私にはその後の出来事が何年も放置されてやっと発見された思い出の写真のようにぼやけて過ぎ去っていった。
ただ朧げな記憶の中、わかっていたことが一つある。
母は"月"に帰ったのだと。
そう思うと急に寄せてくる心のさざなみが僅かながら小さくなる気がした。
親戚付き合いがほぼなかった母だが、唯一叔父が同じ県に住んでおり引き取ってくれた。
家には叔父の奥さんと私より3つ歳上の女の子が1人、ネコが1匹。
叔父さんもおばさんもとても良い人で、私が寂しい思いをしないように全ての家族行事を自分の子供と同様に行ってくれた。
運動会では私の名前が入った旗を振ってくれたし、高校受験の時はお守りを持たせて前日には熱々のカツ丼を作ってくれた。
私は何不自由なく短大を卒業すると家を出た。
20歳。フリーターをしながら声優を志していた。
短大まで出してもらったのだから、近所の銀行にでも勤めようかと思ったが何か自分だけにしかできないものがないかと模索していた頃、初めて人から声を褒めてもらった。
「よく通る綺麗な声だね。」
人間単純なもので、その一言が光り輝いて聞こえたのだ。
そうか、それなら声を使ったお仕事に就こう。
私はその日の夜には、声優養成所のパンフレットの取り寄せを行い、一人暮らし用の家を探し初めていた。
実際に声優の仕事だけで食べていける人間はほんの一握りだ。
ほとんどの人が他のメインの仕事をしつつ生計を立てつつ、養成所に通い練習やオーディションに明け暮れる。
私も例外なくその1人となった。
昼はファミレス、夜は深夜コンビニ、たまに単発の掛け持ちバイトを入れながら必死に食らいつく毎日だった。
それでも私の心は充実感で満ち溢れ、どんなに疲れていても発声の練習を怠ることはなかった。
そんな日々を2年ほど繰り返し、日曜朝の幼児向けアニメーションのちょい役に抜擢してもらえた頃、母が突然私を訪ねてきた。
「私のことわかるかな?」
白色のコットンのトップスに薄い青色のデニムジーンズ、靴は黒色のサンダルで髪型はミディアムボブで少しウェーブがかっているというシンプルな装いとは裏腹にオレンジのアイシャドウがいやに目立つメイクでその人は私の前に立っていた。
「お母さん、、?」
「そう!よかった、わかるのね!」
お母さんははしゃいだように手をグーにして前に握りしめると嬉しそうにはにかんだ。
「急にごめんね。幸雄に聞いたの。」
幸雄とは叔父だ。以前から連絡のやり取りがあったのかどうかはわからない。
「そう、、、どうしたの、急に。」
「お母さんね、また一緒に暮らしたいと思って。」
私は母の表情が何を物語っているのかを知りたく、目を凝らしたがただ無邪気な感情しか見て取れなかった。
ジリジリ太陽がアスファルトを乾かしている初夏の日。16年ぶりの再会だった。
その日から母は私の1Kの狭い部屋に住み始めた。
母は経理の事務員として中小企業で働いているらしく、朝は私より早く会社に向かい、私が帰ってくる頃には夕食を作って待っている。
最初は何を話せば良いのかと戸惑っていたが、毎日30分ほどしか顔を合わせることはなかったので、次第に気にすることもなくなった。
私はただ新しい生活に慣れていくだけだった。
「先輩はどうしてこの仕事してるんですか?」
声優養成所で知り合った10歳上の女の先輩で、趣味も嗜好も全く違うのになぜか気が合う榎本さんと今日は夜ご飯を食べにきていた。
いつもの餃子専門店でレモンスカッシュ一択。
私はお酒が飲めないのだ。
「どうしてって、アニメが好きだからかな。アニメばっか見てて勉強しなかったし、別に他にやりたいこともなかったし。」
「そんな感じですか。まぁそうですよね。」
いつも人で賑わっているお店だが今日はなぜかお隣さん不在だ。妙にしんみりした気持ちになりながら、私は餃子を一口摘んだ。
「なによー、なんか含みあんじゃん。そんな自分はどうなのよ。」
「私は、、褒められたこときっかけで。でもよく考えてみると私人の声が好きなんです。なんですかね、心地良いというか。そしたら私の声も聞いてもらいたいなって。」
「ふーん、良いんじゃない?すみません、ビールもう一本!」
帰り道、2人でアンパンマンの歌を熱唱しながら帰った。あたりはすでに夏の終わりの気配があり、どこか懐かしい気持ちになる深夜2時だった。
これは私が中学生になった頃に知った話だが、母は道ならぬ恋をして私を産み、結局1人で子育てをすることになったようだ。
記憶に全く出てこない父親。
昼ドラに出てきそうな展開で私は嫌気がさしたが、妙にリアルに昔の母の姿を思い出すことができた。
確かに母はよく部屋を抜け出してこっそり、アパートの階段下で電話をしていた。私が夜中に起きて、ふと開けっぱなしの窓から母の少し陽気な温かみを帯びた声を盗み聞きしていたのだ。
わかっていた。母は、"月"に帰ったのではない。
ただ昔の男の元に帰りたかっただけなのだ。当時の私には、その現実が受け入れ難く、ドロドロした何かが口に広がるような吐き気を感じ、そっと記憶を閉じた。
それから私にとっての母は母でなくなり、ただの人になった。
「私、明日の夜遅くなるわね。」
お味噌汁を注ぎながら、母はそう言うと私の返事を待っているように口を閉じた。
私は「そう。」とだけ呟いて、夕食に手をつける。
この人は私にどういう反応をして欲しいのだろう。
なんで?とか聞いて欲しいのだろうか。それともそう言いながら、また姿を消すのだろうか。どちらにしろ私からするとどうでも良いことであった。
明日の夜ご飯どうしようかな。
私は頭の中でぼんやり考えながら、食器を洗い場に置いた。
次の日の帰り。両手で体を温めながら帰路に立った。
昼までは暑かったが、夜になると急に風が強くなり、首元が寒い。
今日は単発の声優の仕事が2件のみ。いつもより早い帰宅なので、私はこれから何をしようか考えていた。
久しぶりに1人だし、外食して帰りにDVD借りてこようかな。そういえば新作が出てると思う。
それかお弁当とビールで家でゴロゴロもいいな。携帯でYoutube見ながらぼーっとするのも良い。
そんなことをぐるぐる考えながら、頭の奥の奥。一番核となる部分では、叔父の家を出る前に姉(正確にはいとこ)に言われた言葉を思い出していた。
「あんた、本当に自分の家のように過ごしてたね。」
あの時からずっとこの言葉が呪いのように頭から離れない。私は寝つきが悪い夜やふとした電車の中でその言葉を何度も反芻した。
そうなのだ。本当のお家だと"思っていた"。
母がいない生活が当たり前。他人の家で、まるで実の子供のように過ごすことが当たり前。
だって、そうするしかなかったから。
何にも縋ることが出来ず、周りを信用できず、自分が何者なのかもわからず。
目の前には大きな満月がびっくりするほど明るく黄色い光で私の道先を照らしている。
みんないつかあの月を目指して去っていくのだろうか。
私をただ1人残して。
心臓を抉るような痛みが走った。ずっとその感情に気づいていたが気づかないふりをしていた。『孤独』だった。
「う、、、」
私はその場にうずくまり、ただただ流れてくる涙を受け止めた。
なんでお母さんは私を捨てたのだろう、なんで私は1人にならないといけなかったのだろう。
どうして母を、許せないはずの母を求めてしまうのだろう。
ふと顔を上げると月は変わらず、そこにいた。全て見透かしているように、でもどこか優しげで今にも手を差し伸べてくれるような温かみと共に。
「ユキちゃん。」
少し甘ったるく、でも澄んだ声。
「お母さん、、」
私はなんで母がそこにいるのかわからず、ただただ月と母の顔を交互に見ていた。
「大丈夫?ほら、立って。」
母は私を立たせてくれるとハンカチで涙を拭ってくれた。
そしてふと私の手に自分の手を重ね、握りしめた。久しぶりに握った母の手。前からこうだったらろうか。肉付きは良いものの表面は少し乾いており、2人に流れた時間の長さを感じた。
「ユキちゃん。ごめんね。
もしかして不安にさせてしまった、、?
お母さんどこにも行かないよ。絶対に。」
母の顔は伏せられていてよく見えない。
「お母さん、本当に、、?でも、捨てたでしょ。私のこと。今更そんなこと言われても。」
「わかってる。私は一生かけてあなたに償っていく。寂しい思いをさせた分、それ以上の愛情をかけていく。
後悔しているの。自分が捨てた時間はかけがえのない大切な時間だったのに。もうその時間は取り戻せないけど。
これからはそばにいても良いかな?」
顔を上げた母の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。鼻水はたれ、口や握りしめている手もブルブル震えている。
「本当に、本当にごめんなさい。」
最後の言葉はほとんど聞こえなかった。でも私にはその声が本物だとわかった。
私がずっと求めていた、あの時の母の声だった。
満月を背に、家に向かう。
手には2人の好きなアイスクリームと切れかけていたトイレットペッパー。
「お母さん、かぐや姫の話覚えてる?」
「もちろん。ユキちゃん一番好きだったものね。」
「かぐや姫は月に帰りたくて泣いてたんだよね?」
「あら、違うわよ。かぐや姫が泣いていたのはおじいさんとお婆さんと別れるのが寂しかったから。ずっと一緒に過ごしたかったのよ。」
私はかぐや姫の心情に心を馳せた。
彼女は月に帰るより、今の幸せを大事にしていた。
母が今日遅くなると言ったのは、夏のボーナスで私にサプライズでプレゼントをあげようとしていたから出そうだ。
部屋にはケーキと肌寒い秋に役立つストール。
私もまたやり直せるのだろうか。
もう時は戻せないけど、今目の前にある日々を大事にしたら。もしかしたら。
満月はその後もずっと私たちの背中を照らし続けた。
完 -かぐや姫-
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