カフェオレとクイニーアマンを食べながら。

太ってきてしまった。

やはり、立ち仕事はそれなりに体力をつかっていたのか。

いや、ご飯を食べられるようになったからだ。

猫の具合がわるくなってから、
ごはんをたべられなかった
たべても少しだけだったりした
ねこがすこし元気になって
たべられるようになってきたところに、
ねこがいなくなって
またたべられなくなった

でも具合がわるいときより
回復ははやかった
当日にはすこしスープや、ロールケーキもたべた。
2、3日は食べるたびに泣いていて、
一皿食べられなかったりしたけど
意外とすぐに食べられるようになった

ロールケーキは、甘いものは食べなくてもあったほうがいい、という妹の一言からだった。
食べられるかわからないよと私が言ったら
食べなくてもいいと、はっきりと言い切った。

妹は、そういうときに、はっきりと意見を言う。
本能からくる言葉のようだ。
とても動物的なところもある。
生きる、ということに対して、動物的な、本能的な感じがする。

なぴくんは最後まで食べていたなあ
具合がわるくなってたべられなくなったとき
指にちゅーるをのっけて、鼻の近くまでもっていっても、ぷいっとしていて
ああこうやってたべないでいってしまうのかと思って泣いた
それから月蝕を境に
指からのチュールをぺろっと食べ、
急に自分から立ち上がりごはんをもりもり食べるようになった。
それから最後まで、自分でお皿まで歩いて、自分で介護用のごはんを選んで食べていた。
食べることは生きることだと、ただ食べる姿を見て伝わってきた。
ハッピーは、いつも背中や姿勢や、生きていることそのものでたくさん教えてくれた。
生き様。
最後まで愛おしく、かっこよかった。

ここでずっと、
ねこがいなくなって、
だの
最後まで
だの書くたびに
なんだか違和感がある。

たしかに、身体はなくなった。
猫の身体としての生は終わった。
けど、いなくなった気はしないし、
最後に会った、という感覚もない。
いまもここにいる気がする。
執着のない状態で。

ヨガで、「愛」がキーワードのヨガの流派があった。
あとでもう一回復習しないと。忘れてしまった。
どういうルートをとるにせよ、
ヨガの目的は、真我に到達すること、なのだが、
愛によって、そこへ到達しようとするのが、そのなんとかヨガだったのだが。
そこで、執着の先には、愛があるとおそわった。
ハッピーは、
その先にいったのかな
もともと、からだの中にいたときから、執着はなかったし、愛の存在だったか。
2001年宇宙の旅で、スターチャイルドが生まれたみたいに。
インターステラーで五次元に到達したみたいに。そこから愛を伝えてくれていたりして。
メッセージをくれていたりして。

そうだ、太っているという話だった。
気の巡りが関係している気もする。
わたしは、気が巡ると、からだがすっきりすることがある。
ヨガをした後、余計なものが手放されて、
肩まわりや鎖骨のあたりや、あごのあたり、
背中や肩甲骨のあたりが
なんだかすっきりする。
表情も明るくなって、目がひらく。
明らかにクリアな状態。

しかし下っ腹だけはてごわい。
ここだけずっとふっくらをキープしている。
いま、太ってるというか、特に、なんだか変化してきたと感じるのは、このおなかの部分。
ここ、力つかえてないよーってことなのかなあ。

ヨガは、足りないことを伝えて、こうしなさい!ここもっとやせなさい!というものではないと思う。
そもそも、知足なのだ。サントーシャなのだ。
こうしたらゴール!というものでもない。

ヨガの目的は、真我に到達すること。
そのためにいくつかのステップがある。
そのひとつに、アーサナ、
いわゆる体をつかった段階がある。
身体のコントロールがある。
その先に呼吸のコントロール、こころのコントロールにつながってゆく。
呼吸やこころのコントロールはむずかしいものなので、まずはからだから、ととのえてゆくのだ。
だから、ダイエットとか、スタイルをよくして、綺麗に!というものとはちょっと違うのだ。
そこが、好きなところだ✨
運動苦手な人生を送ってきたわたしにとって、ドアが開かれた感じがした🚪🌈

ヨガについてざっくりとかいてみると、
まだまだ知らないことがたくさんあるし、
いくらでも解釈を深められそうな気がするし、
人によって捉え方や伝え方も変わるのだろうと思う。
深めるほどにこの説明も言い方も変わっていく気がする。
ここに書いたのは、いまのわたしの理解度からの説明、解釈である。
この前、教わったばかりの知識で、今のわたしの言葉で伝えているものである。

きのう、
周りがなんと言おうと
自分が今の自分をわかって、
ゆるしてあげることだよと
人に言った。

一緒に暮らしていた猫が亡くなってしまう悲しみは、やっぱり経験しないとわからないんだと分かった。
それと、同じような状況を経験していたとしても、それは人それぞれ。その人とその猫との関係性も全然ちがう。
だから、わからなくて当然だ。
その悲しみを抱えてこれからを生きていくこと。どうやって生きていくかも、それがどれほど悲しいかも、どれほどつらいかも、どんなものかはやっぱりわからない。
猫がいたときと、具合が悪くなったときと、亡くなった後では、やはり大きな変化が生じる。
日常が変わる。
そばでいっしょに暮らしていた人がいなくなる。
日常が変わる。

職場の人が、
猫が亡くなった後、どうしてこれまで通りに仕事をしていないのだろうと 
言ったとして、
それを受け取って
自分に、もっと頑張れ!と言う必要はないと思うのだ。
そして、日常が変わったことを周りの人にわかってもらうのは、難しいことかもしれないから、
だから、自分だけは今の自分のことをわかってあげて、これまで通りじゃないことをゆるしてあげてほしい、と思うのだ。

たぶんそれは、わたし自身にもかえってくる。

人に言ったことばは
だいたい、じぶんに言っているものである。

じぶんが、だれかに言って、
言ってから、ああそうなんだとわたしの本当の気持ちを知ったりする。

わたしが、日常が大きく変わったこと
そして、それによって変わってゆくことを
それによって、今は力がでなくても
これまでこうだったことが、そんな風に進まなくても
できていたことができなくても
今のじぶんをじぶんがゆるしてあげよう。

きみは悪くない

グッドウィルハンティングの最後のシーンをふと思い出した。

そういえば、はっぴーの具合がわるくなって
病院に行ったあの日に
ショックを受けすぎて
呆然として、力が抜けていたときに
なぜかこの映画を妹となんとなく見たのだった。

グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち。

好きな映画だったわけでもなく
前に一回だけ見て、なんだか明るい終わり方だった気がしたから
ふと思いついて見てみたけど

旅立ちか。
いまふと調べたら
日本語版のポスターのまんなかに
あなたに出会えて
ほんとうによかった、
ってかいてある。

メッセージかなあ、なんて思った。

わかってもらう必要はないのか
私がそう感じたら、それでいいんだよね。




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