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「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ! 」があんまり好きじゃないって話


~って話って書けばnoteっぽくなると思っている浅はかな奴の雑語りです。
まぁタイトルで察せる通り私は「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ! 」的な言説が好きではない。
ちなみに別にルフィは本編でこんな事を言ったことはない(知ってる)
別にこれはネタ画像として使われているアレではあるのだが自分の観測範囲ではこれ紛いの論法が散見されるような気がする(気がするってなんだよ)
なぜ私が以上の論理を気に食わねぇのか、このnoteでは自分の主観と客観、以上の論理を陳述する人々の心理とのギャップ等々を解剖していこうと思う。




・何が嫌いか論の要約


まぁ詰まる所
「何が”嫌い”かより何が好きかで自分を語れよ! 」
          ↓
    「”嫌い”は語るべきじゃない!」
         なぜ?↓
「”嫌い”によってファンを傷つけるのは辞めるべきだから!」
ということだと思う。単純だが確かに正しい。しかしながらまぁ題の通り私は以上の論理に異を唱えたいワケである。

・私の主張


そもそも批評っつーのは何なのか?ってことを考えたときに

”ある事物の是非・善悪・美醜などを指摘して、その価値を判断し、論じることをいう。批判(ひはん)、評論ともいう。”wikipediaより

そもそもの批評、評論の意義とは作品、ひいてはその他作品をより良い物へ昇華させていくものだと思うのだ。
そう考えたとき”何が嫌いか?””嫌い”あたる部分の物も批判によりまたより良い物へと昇華されていくのだと思う。別にそれは評論家様が垂れる論理的な批判でなくても
”これクソつまんなかった!” ”これはクソだ!”的な言ってしまえば低級な批判にも価値があると感じる。


別に自分の好きなモノが筋の通ってない批判に晒されていても「ははっwこいつわかってねぇな」と心の中で呟いて終わりでいいんじゃないか?批評の多様性(ダイバーシティ)なんじゃないか?

うーんダイバーシティ

多様性叫ばれる現代だが、別に多様性云々は人権思想抜きにして様々なイレギュラーに対応できる合理的な物。批評にも同じ事が言えると思う。
そしてやっぱり一番は皆が好きなこと言えない社会とかコミュニティって生きづらくね?いーじゃん鬼滅の刃つまんねー言ったっていーじゃん!東リベ 腐臭キツイって言ったって!
(注意 別に私が以上の事を思っているわけではない。念の為。ほんとに)

私は好きだよ!?

レッテル…無根拠…暴言… 様々な批判 精神によかろうハズもない。しかし、だからとて健康にいいものだけを採る。これも健全とは言い難い。毒も喰らう 批判も喰らう。両方を共に美味いと感じ血肉に変える度量こそが人には肝要だ。

勇次郎が言いたいこと全部言ってくれたわ

結論!

まぁ以上の文は私の主観が大いに含まれてる。多分気に食わねぇ香具師もいるだろう。まぁ私が言いたいのは批評はラブ&ピースってこと!(適当)
無駄なカロリーとSAN値を消費するのはヤメッ!

結構重要なところ


…なんか色々書いててよくわかんない方向に向かってたけど正直こんなナヨナヨっとした文になったのは理由がある…(多数のネタ画像にも。恐らくちょっと見にくいと思う)

こんなこと書きなぐってる自分もやっぱり罵詈雑言がコワイ。
思えばタイトルの”あんまり好きじゃない”って書き方がそもそも外圧に屈しているのである。
弱い人間だねぇ私って。


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