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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第2章 雨の月 第1話 幼なじみ

第2章 雨の月

第1話 幼なじみ

 お腹すいた。
 ぐうう、と腹の虫が鳴きだすころ、ようやく自宅に到着する。
 玄関の扉を開ける直前、ドアノブに手をかけたまま頭の中で考える。今日の夕飯は……きっとクリームシチューだ。ひとりで勝手にそう予想して、やっとドアノブを引いた。
 玄関をくぐった瞬間に、ふわりとホワイトソースの香りがする。
 ほらね、やっぱり。
 優しいにおいに思わず頬が緩む。
 
 母手作りのクリームシチューは、幼いころからのわたしの大好物だった。幼稚園に通うころに受けた予防注射の日、嫌いだった徒競走の種目に出なければいけなくなった小学校の運動会の日、ランクをいくつも上げて挑んだ高校受験の日、ずっと夢だった教員採用試験を受けた日……わたしがなにかをがんばったその日の夜には、必ず夕食の献立はクリームシチューだった。
 だから、きっと今日もそうだと思った。
 だって今日は教師一日目。とってもがんばった日だから。
 
「ただいまー」
 
 リビングの扉を開けると、夕飯を作っている最中の母がキッチンからひょこりと顔を出す。
 
「晴花、おかえり。初勤務はどうだった?」
「楽しかった! ……けど、すっごく疲れたぁ……」
 
 はふ、と息を吐くわたしを、そうでしょう、と母が笑う。
 
「これからは、きっともっと大変になるわよ。なんていったって先生なんだから。それでも、いつもニコニコすることを忘れなければ、ちゃんと乗り越えられるわ。だって晴花のセールスポイントは……」
「笑顔、でしょ」
 
 被せるように言って、にっと二本の指で口角を上げてみせると、母はうれしそうにうなずいた。
 笑顔をほめられることはたしかによくあるけれど、そこまでだろうかと自分では思う。でも、そこが強みだと言われるのなら、これからも笑顔を忘れずにいよう。そのほうがいいことだってありそうだし。笑顔は自分なりのジンクスのようなものだ。きっとなんでも乗り越えられる。
 
 ……とはいえ、今日は本当に疲れた。体力を使うようなことはしていないから、きっと気疲れなのだと思う。……まあ、それもそうか。生徒たちにあんなに長時間取り囲まれて質問攻めにあっていたら、こうなるのも当たり前だ。
 年齢に彼氏の有無に……その他諸々。本当に容赦なかったな。高校生って怖い……。
 
 着替える気力も残っていないわたしは、スーツのままソファに座り込んだ。そのまま、くて、と横になる。するとテーブルの上に置いてある箱に気づいた。
 かわいらしい書体で、洋菓子店らしい名前が書かれている、薄いピンクの小さな箱。
 
「なにこれ、ケーキ?」
「ああ、それね、さっきお隣さんからもらったの。晴花が今日から先生になったお祝いってね」
「えー、うれしい。ありがたいなぁ」
 
 起き上がり、箱を開けて中を見る。見ただけで絶対においしいことがわかるような、かわいくておしゃれなケーキが数種類入っていた。ふわりと漂う甘い香りに思わず目を輝かせる。
 
「すごい、どれもおいしそう!」
「隣町のケーキ屋さんのらしいんだけど、このあいだテレビで紹介されたんだって。すごい行列だったらしいわよ」
「へえ。そんな貴重なケーキ、もらっちゃっていいのかな」
 
 と言いつつ、すでに食べる気満々だけど。
 
「迷うな……全部食べたい……」
「食べるのは食後にしなさいね。今夜は晴花の大好きなクリームシチューなんだから、お腹いっぱいで食べられなくなっちゃうわよ」
 
 そんなことは言われなくてもわかってる。わたしはもう子どもじゃないんだから。……とひとりでぶつぶつつぶやきながらも、でも一個くらいならいいかなぁ、なんてことも考える。疲れているときには糖分が必要だし。
 
「夕飯食べる前に、お隣さんにお礼してきたら?」
「あ、うん、そうだね」
雨月うづきくんも、もう帰ってきてるでしょう」
「……うん」

 じっとケーキの箱を見つめる。
 ふっと息を吐き、立ち上がった。
 
「ちょっと行ってくる」
 
 わざわざ着替えるのも面倒だし、せっかくならこの姿を見せたいと思い、スーツのままでもう一度外に出た。
 ふと見上げた空はもう暗く、星がいくつか輝いている。近所の家の窓からはあたたかなやわらかい橙色の光が漏れて、子どもたちのかわいい笑い声が聞こえてきた。
 道のまんなかで大きく背伸びをして、深呼吸。……うん、向かいのおうちはハンバーグかな。その隣はからあげ? こっちのおうちはカレーっぽい。シチューもいいけどカレーもいいよね。わかる。
 そんなことを考えながら、十秒もあれば着いてしまう隣の家のインターホンを押す。隣の晴花です、と名乗ると、すぐに玄関の扉が開いた。
 にっこりと笑って、おじぎをする。
 
「おばさん、こんばんは」
「あら、ハルちゃん。やだちょっとスーツなんて着ちゃって、こないだまで学生さんだったのにもうすっかり先生ねぇ」
「あはは……まだちょっと慣れないけど」
 
 照れ隠しに頬をかく。玄関から出てきたお隣のおばさんはうれしそうにほほえんだ。幼いころからずっと追い続けてきた夢が叶ったこの姿を、おばさんもとても喜んでくれているみたいだった。
 そうだ、とわたしはもう一度頭を下げる。
 
「すっごくおいしそうなケーキ、ありがとうございました! あんなにたくさんもらっちゃっていいの?」
「ああ、いいのよ。お祝いだから。それに、うちは私以外みんな甘いものを食べないから。おいしいって聞いたから、ぜひ食べてね」
 
 はい、と笑顔で返事する。
 すると、おばさんはすぐにリビングを指差した。
 
「上がっていくでしょ?」
「え? あ、でも忙しい時間帯だし……」
「気にしないで。あの子と話してあげて。ちょうどさっき帰ってきたところだから」
 
 おじゃまするつもりはなかったけれど……。せっかくのお誘いだし、と玄関の中へ入る。
 むかしから数えきれないほど何度も遊びに来ているこの場所は、わたしにとって第二の我が家みたいなものだ。においも、空気も、インテリアも、自分の家のように思えてほっとする。
 玄関を上がり、手慣れた動作でスリッパをホルダーから取り出して履く。それからいつものようにリビングに入って、部屋の中心にあるふかふかのソファへと目をやった。
 
 そこに座るのは、冷たいカフェオレのグラスを片手に、文字ばかりが書いてある本を悠々と読む、まだ制服を着たままの……わたしの受け持つクラスの生徒。
 
「ほら雨月、お隣のハルちゃんが来たから本なんて読んでないでちゃんとおもてなしして」
 
 おばさんの声に、ぱたりと本を閉じる音。学校にいるときとはびっくりするくらい雰囲気の違う、長い前髪をピンで留めた彼の姿。
 ゆるやかに顔を上げたその瞳に、はっきりとわたしが映し出される。
 
「……いらっしゃい、
「おじゃまします、……
 
 夏野雨月。これが、彼のフルネーム。
 雨月は、わたしの家のお隣さんで、わたしにとって初めての生徒でもあって、そしてなにより。
 
 ――なにより、わたしの大切な、年の離れた幼なじみだ。


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