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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第9章 ハイドレンジア 第1話 幼い日の記憶

第9章 ハイドレンジア

第1話 幼い日の記憶

「あー、終わったぁ」
 
 カーペットの上に座り、ゆるゆると長い息をつく。それから、すぐに右手に持った本日三つめのクレープにぱくりとかじりついた。
 
「晴花、食べすぎ」
「だってクラスの子が最後にくれたんだもん。余った材料で作ったけど調理室の冷蔵庫に置きっぱなしにできないから食べちゃってって」

 そんなことを言われたら仕方ないよね。残っちゃったらもったいないし。
 呆れるような顔つきで、前髪をピンで留めた雨月が隣から目を細めてこちらを見てくる。もぐもぐとほおばりながら、雨月にも食べかけのクレープを差し出した。
 
「甘くておいしいよ。雨月も食べる?」
「……いや、いい」
「一個も食べてないんでしょ? ちょっとだけ味見してみてよ」
「いらないよ」
 
 そっぽ向く雨月に、むうとくちびるをとがらせる。
 ふうん、じゃあ、わたしが全部食べちゃお。
 
 学校からの帰り道、急きょふたりで文化祭の打ち上げをしようということになり、今は夏野家に寄って雨月の部屋で乾杯をしているところだ。
 ……とはいえ、飲みものは冷たいカフェオレで食べものはドーナツ。つまり、普段となんにも変わらないということだ。これじゃあ打ち上げでもなんでもないんじゃないか、なんて雨月は苦言を漏らしていたけれど、わたしはこれでいいと思っている。ふたりきりでいられる時間は、結局どんなものでも楽しいから。
 
 カフェオレを一口飲んで、ぷは、と息を吐く。
 
「それにしても、気になるなぁ。似鳥さんがほしかったものって一体なんだったんだろう」
 
 ううん、とうなりながらつぶやくと、雨月はわたしに目をやった。
 
「それ、まだ考えてたの」
「んー……だって、あんなふうに言われたら気になるよ。わたしが持ってて似鳥さんが持ってないもの……。なんだろうな、教員免許とか?」
「……違うと思う……」
 
 今度こそはっきりと呆れた顔をする雨月。
 わたしはまたううんとうなる。
 
「えー。それじゃあ、なんだろ。車……でもなさそうだし、戸建……はわたしも実家住まいだし、やる気……はわたしもそんなに持ってないし、ええと……」
 
 難しい顔で考えるわたしを見て、雨月がこらえきれない様子で、ふは、と笑う。それから、横に並ぶわたしと向き直るように体勢を変えた雨月は、ずいと距離を詰め、じっとわたしの顔を見つめてきた。
 
「答え、教えてほしい?」
「……雨月?」
 
 あまりにも近い距離だ。鼻先が触れてしまいそうなほど。
 ぱちりと目をまたたいた、その瞬間。
 ぷに、と一瞬だけ、やわらかくあたたかな感触がくちびるに当たった。
 
「おれだよ」

 は、とくちびるの端から息が漏れる。目を大きく見開いたまま、思わず固まる。
 雨月は呆然とするわたしを優しく見つめた。
 
「似鳥さんが手に入れられないのは、おれ。……おれは、晴花のものだから。難しいことなんてなにもない、たったそれだけのこと。これでわかった?」
 
 こつり、と額を合わせられる。
 雨月の虹彩にわたしがはっきりと映る。
 
「晴花もおれのだよ」
 
 普段は聞けないような、とても優しい声音だった。
 胸の奥にじわりとあたたかな感情が広がっていく。
 おだやかで、優しくて、だけどどこか力強くて――絶対に揺らがない芯のある雨月の言葉。
 
「あ、う、えと……そ、か」
 
 額を合わせたままあっちこっちと視線をさまよわせる。ふいに、きゅ、と手を握られた。最初は驚いたけれど、わたしはすぐにふわりとほほえみを浮かべる。
 
「雨月は、わたしのなんだ。……そっか」
 
 確かめるように、舌の上でもう一度その言葉を転がしてみる。心が軽くなり、なんだか安堵したような心地になった。知らなかったな、と小さく声を漏らす。
 くすりと笑う声が聞こえて、はっとした。額を離した雨月が笑いを噛み殺している。
 
「晴花、顔真っ赤」
「う、うるさいなっ。だっていきなりそんな……き、き、キス、されたら……誰だって照れるでしょ!」
「そう?」
 
 余裕げに口もとに笑みを浮かべる雨月は、まるで年下らしくない表情だ。わたしのほうが四歳もお姉さんなのに、どうももてあそばれているような気がする。
 雨月はむかしからこうだった。他の人の前では、おどおどびくびくしているくせに、わたしとふたりきりのときだけは人が変わったみたいに物怖じせず堂々としている。今だってそうだ。……なんのためらいもなく、キスするなんて。
 横目で雨月を見る。どうしてそんなにすましていられるのだろう。たった一瞬くちびるを合わせただけで、わたしはこんなにあたふたしているのに。……なんだか、ずるい。
 
「……雨月は、恥ずかしくないの?」
 
 上目遣いでそう聞けば、雨月はゆるりと首をかしげる。

「なにが?」
「なにがって……こういうこと、するの」
「こういうことって、どういうこと?」

 目を細めて聞いてくる雨月は意地悪だ。わかっているくせに、わたしの反応を見て楽しんでいる。
 キス、と言葉にするのが恥ずかしくて、なにも言えずに縮こまる。そんなわたしを見て、雨月は楽しそうに笑った。
  
「全然恥ずかしくないよ。晴花とだから」
「……わたしとだと、恥ずかしくないの……?」
「うん。もっとしたいと思う。キス以外のことだって」
 
 はっきりとそう答えた雨月に、再びかあっと頬が熱を持つ。
 
「う、雨月のえっち!」
「なんでだよ。キス『以上』のことじゃない、キス『以外』のことって言ったんだ。触れたいとか抱きしめたいとか、そういうことを言ってるんだよ。晴花、なにを想像したの?」
 
 意地の悪い笑みを浮かべ、わたしの顔を覗き込む雨月。
 ああ、もう、やっぱりずるい。雨月は意地悪だ。
 
「わたしをからかって楽しい?」
「楽しいよ。あたふたしてる姿を見るのが好き」
 
 むう、と頬を膨らますと、雨月は「うそだよ」と頭を撫でてきた。大きなてのひらに、思わずどきりとする。そういう仕草にも、もうむかしの雨月じゃないんだと強く思わされる。
 
「うう……なんだか雨月のほうが大人。キスだって余裕だし、いろいろ大胆。……まさか雨月、こういうことに慣れてる?」
「そんなわけないだろ」
 
 小さく笑う雨月。それから、わたしの瞳をじっと見る。
 幼いころによく見せてくれた優しい顔で、雨月は口を開いた。
 
「晴花、憶えてる? おれが屋上で、似鳥さんにキスされたときのこと」
 
 その質問に、わたしは静かにうつむいた。
 
「……うん、憶えてる」
「あのときおれ、あれがファーストキスって言ったけど、よく考えたら違ったんだ」
 
 思いがけないせりふに目をまたたく。顔を上げ、「……え?」と首をかしげると、雨月はにっとくちびるに弧を描き笑った。
 
「おれのファーストキスは、晴花とだった」
 
 え。……わたしと?
 たしかにわたしと雨月は、今日二回キスをした。……だけどそれは、似鳥さんのあとだ。それじゃあファーストキスにならない。
 目を丸くしていると、雨月はそっと語り出す。
 
「思い出したんだ。おれが幼稚園に通うころ、小学生だった晴花と未来を約束した日のこと」
 
 遠い日の記憶。まだ小さなお互いの手を握り、将来の夢を打ち明けあった、あの日のこと。
 学校の先生になりたいと話したわたしに、まだわたしよりはるかに背の低い雨月が言った言葉。
 
 ――ぼくはね、はるちゃんをおよめさんにしたい。
 ――はるちゃんをおよめさんにするのが、ぼくのゆめ。
 ――はるちゃんのことが、すきだから。
 
 もみじのような小さな手に、ぎゅっと強く握りしめられたこの手。まっすぐに伝わってくる気持ちがうれしかった。わたしだけを一心に見つめて追いかけてくる彼が愛おしかった。
 だからあのとき、わたしは言った。
 それじゃあ、大きくなったら結婚しようと。わたしも、雨月のことが、大好きだからと。
 ……そして、まだ小さなわたしたちは、お互いの未来を約束するように幼いキスを交わしたのだ。


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