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【現代アートの教育】理論と実践のリアルな真意とこれからのアートの未来の考察

現代アートの理論と実践

 現代アート(コンテンポラリーアート)では、理論と実践というのが大流行して久しい。理論はほぼそのままの意味で、実践というのはおおざっぱに言えばアート制作や人々の交流を指す。

アートの実践

 現代アートは世界大戦中に絵画を描くことから、それ以外のものへとアートが移っていき途中でコンセプチュアルアート(概念のアート)などを経て、今のアートやその地域やその人間の歴史などの文脈が混ざり合い、それはつまり「言語」が介入していった流れがある。

アートに論理はない

ここに「言語」と表現したのは、現代アートが堂々と公言している「理論」というのは「理論」なのではなく、つまり「論理」なのではなく「言語」にフィーチャーするのが正解なのではないかと、、、いや、、、「言語」であると断言したい。

理論と言語

 では、「理論」と「言語」の共通点と違いをみていこう。
それは使う手と脳によるものだ。
手、目、脳のつながりの中で、例えば論理と感覚が身体の左右に分かれているのであれば、左右をうまく使い分けるとそれぞれを非常に有用に活用することができる。例えば、わたしは右手で絵を描き、左手でパソコンのマウスなどを使う。文字を書く時に左手では難しいのだが、パソコンなどの文字を例えば左手で打つようにすると言語=論理の脳(よく左脳と呼ばれている箇所)が活発になる。すると、苦もなく論理的思考ができるようになる。反して、右手で文字を書いたり打ったりしながら論理的思考をしようとすると無理がかかりかなりストレスがたまる。(ほとんどの人は右手と左脳、左手と右脳が連動しているが、わたしの場合は逆になっており右手が右脳、左手が左脳に連動している)わたしが知る限りこのことに気がついているアーティストはレオナルド・ダ・ヴィンチとサイ・トゥオンブリーだ。特にサイ・トゥオンブリーは暗号の解読もしていた人物で暗号というのはつまり言語であるから、その機能についてもっと詳しいのだろう。ここまでが共通点。
違いは、言語には芸術性がそなわっていること。つまり論理的ではない部分があることだ。特に日本語は右脳も使う言語なので日本語が話せるわたしはここに気が付きやすいのかもしれない。俳句の表現などは完全に感覚的世界観としかいえないと思うがでも論理の世界である左脳、言語で表現されている。
言語には霊力がある。見えないのだ。

「見えない」世界

「言語」を使うことにより、アート作品を「見えなくする」ことがとても重要な流れだったということだ。だから、、、本来理論ではない。

これからのアート界

アートはどんどん見えなくなっている。
見えないものを見えない表現、今は言語しか表現しようがないのかもしれない。だから、コンセプチュアルアート(概念のアート)というのが流行った時に「説明」や「解説」というアート作品のタブーを強いられ、元来のアーティスト(アーティスティックな能力を持つ作家)は大混乱した。

そしてこれから、アートの世界は世界中のたくさんの人が関わっていく方向へと向かっている。誰でもアーティストとなのれる世界がもう始まっており、はたして我々アーティスティックな能力を持つものはどこへ行けばいいのか、、、。

おまけ

他にも今の現代アートは俳優業がメインなので、ある意味それも霊力であるがわたしの体感では俳優の持つ霊力とアーティスティックな霊力は種類が全然違うのだ。これについてはまた時がきたら語ろうと思う。

さいごに

勢いで書いているので、論理的になっていない文章があります。
ここにタイプライターならではの左右両方の手を使った文章である軌跡も感じられます。また、ライブ感を大事にしたいと思っています。
あえて清書しないことで伝わることがると思っています。
わたしが書きたいのはあくまでヴィジョンなのです。
なにかお気づきの点があればコメントなどください。
できる限り答えようと思っています。

現代アーティスト 入呂葉

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