優しさってなんだろう?1
優しさってなんだろう?疑問が浮かびました。
私は人から優しいと評価していただけることがままあります。有難いことです。ただ照れと同時に、賞賛も心へ染み込まないバリアがあります。バリアとなる疑問。
「本当に優しいのかな?」
大切な人のために心から行動できる。これは自覚があります。
相手の意にそぐわなくても伝えなければと思えば、キッパリと発言しました。たとえ今、嫌われてものちのち気づいてくれれば、そう祈りながら下手な言葉・強い語気で話そうとすることもあります。
逆に徹底的に寄り添って、感激された経験もありました。困難への提案や、悲観的なその人への肯定的な意見。素直にそんな悲しそうな顔をやめて欲しくて口をついた言葉です。
ひとえに相手のため。結局は主観的な自己満足です。それでも自分なりの「相手のため」の熱量は通じるらしく、優しいに繋がります。
けれども、万人にそんなことをする訳ではありません。好き嫌いで距離を置けない対象ならば円滑な人間関係のために寛容で物分りが良い振りもします。小難しい性格の方や考え方が違う方への処世術です。表面上取り繕っても本当は面倒なので手抜き対応にもなります。私なりに優しさの差別もしてきました。
必要性から付き合っている人達に対しては、内心はキーキー怒ったり、のちのち友人へ愚痴をこぼしたりしています。
そんな私は誠に優しいのか?偽りがあるのだから、ほめられるに値しないのではないか?お陰で、賞賛もピンと来ないことが多いのです。結果、はじめの疑問が浮かびました。
「優しさってなんだろう?」
想像力を持って他者を慮ることが優しさならば、確かに努力してきました。大変そうな人は手伝えることがあればと思います。大変そうでなくても、あの人の役に立てればと考えることがあります。好きな人ならば心から、好きでない人には傍目や打算とはいえ。
でも、でも、いくつもの反論が自分の中で出てきます。そこで、何回かに分けて「優しさ」についての疑問を綴ってみることにしました。
この設問に向き合って私が最終的に望むことは、優しくしたくなるくらい大切な人達からの「優しい」を素直に受け入れることです。
謙遜も過度になれば自虐とも言えます。ある意味、私を買ってくれている人達の価値観を否定することです。みんなが評価する人を無闇にこき下ろしたくありません。一度や二度ではない高評価を頑なに拒否し続けるのは、ちょっと違うのではないかとも思うのです。
今回書いたからといって、すぐ素直に受け止められるものでもないでしょう。ただ少し整理のきっかけになればいいなと期待しています。
お付き合いくださる方がいれば幸いです。
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