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Essay_s#9 私の担任②五十嵐先生

私は、毎日コンタクトレンズを利用しています。恐らく0.01とかそういう視力だと思いますので、コンタクトレンズやメガネは必需品です。

そんな視力の私ですが、小学生低学年の頃は、バリバリ視力1.5の少年でした。「2.0は見えなかったー!」とか言って悔しがっているような感じでしたが、状況が一変したのは小学4年生の春のことです。

毎年、4月とか5月くらいに視力検査が行われます。
そのときも、「さあ今回は2.0見えるかな…!」くらい余裕ぶった気持ちで左目を隠し、視力検査表を正面にして立ちました。

保健の先生が、次々と輪っかを指し示します。

「…ん?…見えにくい?」

今まで見えていたはずの大きさの輪っかが、明らかに見えません。動揺を隠せない私。手応えもないまま、一応穴が開いている方を指さして答えるのですが、多分合っていないのでしょう。同じような大きさの輪っかを2,3度繰り返し答えさせられます。

「0.7だね」

今の時代の視力検査は、AとかBとか、ざっくりしています。確かAが1.0以上ということで、B以下の場合は眼科受診を勧めるプリントが渡される流れです。

当時は0.1刻みの細かく測定するシステムで、小学4年生の春に初めて0.7という結果になりました。でも、その結果が分かってから、授業中の黒板とか、家でテレビを見ているときの見え方を意識してみると、確かに見えづらいのです。確実に視力は下がっていました。

私は、基本的には活発で明るいタイプの子どもだったと思いますが、人に言われたことを後々まで気にしてしまったり、他人からしたら大したことではなさそうなことでも長期間一人で落ち込んでしまったりするようなナイーブなところもある少年でした。今でも、わりとそういう気質がありますが。

視力が一気に下がってしまったことを、私はとても気にするようになりました。ちょうどその当時はゲームボーイが流行し、夜とか暇な時間になるとゲームボーイばっかりやる少年だったんですが、「こんなにやったらまた視力が下がるのかな…」と、心のどこかで気にしながらゲームをやるようになりました。次の年の視力検査が来るのを何か月も前から憂鬱に思ってさえいるような、なんともストレスフルな過ごし方をしていたように記憶しています。

そんなこんなで、5年生の視力検査の日がやってきました。1週間くらい前になると、

「あと〇日で視力検査か…」
「視力下がっているかな…」
「視力検査いやだなあ…」

こんなことばっかり考えて、家の少し遠いところにある貼り紙とかカレンダーとかを眺めていました。なぜ眺めるかというと、自分の目の見え具合をチェックするためです。そんな少年でした。もっと人生楽しめばよいのになあと、今その場に行って、注意してやりたいくらい、妙なところで内向的な少年でした。

そして視力検査当日。

「………見えない…」

保健の先生が指し示す輪っかが、0.7のそれではないことが、すぐに分かりました。保健の先生は、どんどんと大きな輪っかを私に問いかけます。

「…分かりません…」
「…みぎ…かな…」

「0.3だね。だいぶ下がったねえ。」

あまりのショックで、帰宅するのがとても憂鬱になったことを覚えています。家に帰ると、母親に視力検査の結果を報告しなければならないからです。

結果的に、私は小学5年生の年にメガネをかけることになりました。今でこそ、色もデザインも様々なオシャレメガネがたくさんありますから、今の時代に生きる小学生であったなら、もう少し抵抗感が薄れたかもしれません。しかし、当時は男子だと黒縁の細いメガネ一択でした。嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、着用するより仕方ありませんでした。

本当に嫌々メガネをかけることになったので、この時期は、少しでも外せるときには外して過ごすようにしていました。メガネをかけたことのある人なら分かりますが、一旦メガネなりコンタクトレンズなりで「見える世界」を知ると、外した後の世界は「無」です。ろくに見えないので、何をやるにも支障が出ます。それでも、私は可能な限り外すような生活をしていました。特に、久しぶりに合う従妹とか親戚なんかが来るときには、「いつメガネを外そうか…」などと、朝から鬱々と考えるのです。本当に、心も体も不健康です。

視力とメガネ問題は、5年生でメガネをかけるようになって解決するかと思いきや、まだまだ尾を引きます。

6年生になりました。この頃には、本当に目が悪くなるのが嫌だったので、ゲームの時間もすごく気にするようになりました。私のまわりの友達には、家でそういう決まりがないようで何時間でもゲームをやるような子もいて、それなのに視力1.5だったりするわけです。私は、それが心底納得できず、「なぜ自分ばっかりこんな視力が下がるんだ」と、これまた鬱々とします。

そして6年生の視力検査。裸眼の視力はもうたいして気にしませんでしたが、なんとメガネをかけた矯正視力でも、0.5だかなんだか、それくらいしか出なかったのです。明らかに視力が下がり、メガネの度数が合わなくなっていました。

「どうして、自分は気を付けて生活するようにしているのに下がるんだ。」
「友達は、あんなゲームばっかりしていて、どうして1.5なんだ。」



ようやく、ここで私の担任、五十嵐先生が登場します。
五十嵐先生の話なのに、一体ここまで何行使ったのでしょう…笑

五十嵐先生は、20代後半の男の先生でした。ずっと野球をやっていた先生で、背が高く運動神経抜群の先生でした。小学生用のバスケットゴールにダンクシュートする姿は、子ども心に本気で惚れました。

非常にユーモアのある先生でもあって、毎日笑いの絶えない学校生活を送りました。4・5年生の担任だった本庄先生とは、タイプが全然違ったのですが、私はどちらの先生も大好きでした。

五十嵐先生のエピソードも、アレコレたくさんありますが、ぱっと思い出されたのは、パズルです。

当時の小学校は土曜日も学校がありました。3時間授業をやって、給食を食べずに帰ります。ある土曜日、その日の朝、なぜか五十嵐先生は大きなパズルを教室にもってきました。たぶん、500ピースとか、1000ピースとか、そんなやつだったと思います。

きくと、昨日隣町のパチンコ屋に行って、景品としてそれをもらってきたそうです。そして、五十嵐先生は、二日酔いで調子が悪そうでした。昨夜パチンコに行き、大勝したのか何なのか深酒をし、そして迎えた翌日、という場面です。

我々6年生6名は、その日の午前中、学校で半日パズルを楽しくやって帰宅しました。今でこそ、そんなことやったらネットニュースとかで散々批判コメントが殺到しそうですが、当時は平和でしたね。まあ、これがいいのか悪いのかはよく分かりませんが…でも私はそんな人間くさい五十嵐先生が大好きでした。


さてさて、6年生担任の五十嵐先生。

定期的に学級通信を発行してくれていましたが、ある日の学級通信に、こんな内容のことが書かれていたのです。

視力を下げないために、
『テレビやゲームの時間を守る』
『暗いところで本を読まない』
『目が疲れたら遠くを見て目を休める』

など気を付けましょう。それでも視力が下がる場合は、
『遺伝だと思ってあきらめる』

五十嵐先生の発行した学級通信より、私の記憶を頼りに

悩み多き少年は、この『遺伝だと思ってあきらめる』と書かれた学級通信を読んだ瞬間、心底ほっとしたのです。その言葉で、大げさでもなんでもなく、本当に目の前がパーッと明るくなりました。

その日家に帰ってすぐ、母親に「目が悪いのは遺伝だから仕方ないんだよ。先生が言ってた!」と偉そうに報告した記憶さえあります。

五十嵐先生は、きっと、毎日私と接する中で、異変を感じたのだと思います。もしかしたら、私が五十嵐先生に「なんで俺は目が悪くなるんだろう。〇〇君は、ゲームばっかりやっているのに1.5だし…!」そんなことを愚痴ったのかもしれません。

普通だったら気が付かないか、話を聞いたとしてもスルーするような話題だと思います。学級通信にあえて載せるようなことは、普通しませんね。

ですが、あの記事。『遺伝だと思ってあきらめる』。間違いなく私に向けて書かれたあの言葉には、五十嵐先生の、児童理解の深さ・鋭さ・あたたかさ・ユーモアがぎゅっと詰まっていました。

私は、その言葉で本当に救われました。

その後、私は中学3年間でさらに視力が下がりました。けれど、かつてのように鬱々と悩んだり、他人と比べてイライラしたりは、もうしなくなりました。

そんな、私の担任、五十嵐先生。その年から、12年後、私も同じ小学校の教師になりました。

五十嵐先生から学んだこと。五十嵐先生が私たちにしてくれたこと。かつて、五十嵐先生が一人の少年の心を解きほぐしてくれたように、私も苦しんでいる子にしっかり寄り添えたでしょうか。

私の担任、五十嵐先生。今は、校長先生になってご活躍だと聞いています。

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