オタクは『水星の魔女』の"結婚"削除に怒るべきか?
Ⅰ.はじめに
この記事をご覧になって頂いてる方は既にご存じだろうが、大団円を迎えたはずのガンダムシリーズ最新作『水星の魔女』が今、荒れに荒れている。
ガンダムエース2023年9月号に掲載された『水星の魔女』のインタビュー記事で、主人公スレッタ・マーキュリー役の市ノ瀬加那さんがスレッタとミオリネを指して「結婚した2人」と称した表現が、紙版ではそのまま使われているにも関わらず、電子版では「結婚した」が削除されてしまい、公式から「結婚した」という表現は「編集者の憶測による文面」であるため修正を行ったというアナウンスが出てしまった。
このことが大炎上しているのである。
さて、早速ではあるが本題に移りたい。
私は、『水星の魔女』のファンとして、そして百合オタクとして、この炎上で声を大にして言わなければならないことがある。
それは、公式に対して怒っている人たちは、自分たちが何のために怒っているのかをちゃんと考えるべきだ、ということだ。
ハッキリ言って、今回の件で怒っている人々の大半が”解釈違い”でしかないことを”表現規制”や”差別”等の極めて政治的で強い言葉を使って批難しており、結果として邪推や不信感を生み、不必要に作品を貶めているのだ。
私自身も、公式は迂闊なことをしたなと思っている。
だがそれ以上に、無意味な怒りを振りまく人に冷静になってほしい。
とはいえ、この記事をご覧になっている人の大半は、公式に対して怒っている側だろう。
そのため、アナタの抱える怒りが本当に必要なものなのかについて考えていきたい。
Ⅱ."結婚している"と明言される意味は?
まず、誰でも思いつく疑問から考えていく。
そもそも、”結婚”の公式発表にどれぐらいの価値があるのか問題だ。
改めて言われる必要もなく、スレッタとミオリネは"結婚している”。
正確には"ごっこ遊び"終了以降で明言されている表現を用いると、"家族"になっているだけなのだが、”結婚している”とみなすのが妥当だ。
一応、公式としては「解釈にお任せ」とあるが、視聴者の7割程度は”結婚している”ものとして理解しているだろう。
ここまでわかりやすく描いておきながら、今さらダメ押しで”結婚している”とアナウンスしたとして生まれるのは、紙版のインタビューの切り抜きがSNS上で駆け回った時よろしく私たち百合オタクたちの「ありがとうございます!」という魂の叫びと、「添い遂げおめでとう」という尊みに満ち溢れた感情だけである。
ではここで、当然のことながら、真逆の疑問が生まれる
なぜ公式が”結婚”の明言を避け、削除したのか?ということだ。
Ⅲ.何に対して何故怒っているのか?
今回の炎上の一番の争点になっているところだが、ほぼ確定的にスレミオは”結婚”しているにもかかわらず、なぜ削除が行われてしまったのだろう?
このことについて公式から出ているアナウンスとしては「編集者の憶測による文面」となっている。
実際に市ノ瀬さんが”結婚”という単語を用いたかどうかは重要ではない。
アレほど明確に”結婚している”描写があるにもかかわらず、”結婚”しているかどうかは「解釈に任せ」てあるとされたのである。
何故だろうか?
この疑問に対し、多くの人が同じ怒りをもって結論を導いている。
つまり、
「”結婚”を明言できないのは、”同性婚”を認めない”性的マイノリティ”への”差別意識”からくる”表現規制”だ、同性愛者の権利を守るためにも抗議しなければならない」
という怒りだ。
中には、我知り顔で「『水星の魔女』は”クィアベイティング”だ」などと先鋭化された論調を出す者まで出てきている。
だが、果たして本当にこの修正が”差別意識”に根差したものだと言い切れるだろうか?
また、果たして本当にこのような怒りの抗議は同性愛者の権利と結びつくものなのだろうか?
どちらも一見すると正しそうに感じるが、私はどちらについても一考の余地があることを記したい。
結論から述べると、”結婚”に”解釈”の入る余地は十二分にあるし、多くの人が抱いている”性的マイノリティの権利”のための怒りは”解釈違い”を正当化するためのものでしかなく、正義を伴うものではないと考えている。
これらの点について、掘り下げを行いたい。
Ⅳ.作中におけるスレミオの当事者性
さて、今回は”性的マイノリティ”、”結婚”、”社会的立場”の3つの観点から『水星の魔女』の物語完結時点におけるスレミオの立ち位置について、批評のテーブルに並べてみたい。
スタッフやキャストの個人的な見解ではなく、あくまでアニメのストーリー及び前日譚である『ゆりかごの星』から分析できる内容について考察を行っている。
1.スレミオと"性的マイノリティ”
まず、大前提だがスレッタもミオリネも性的マイノリティではない。
あまりにスレミオの引力が強く互いが特別な関係として結びついており、我々百合オタクは忘れがちだが、スレッタもミオリネも作中で同性愛者であるという明言は一度もなされていない。
むしろ、スレッタはエランに対し好意を抱く描写が明確に描かれており、ミオリネもシャディクに対して「私はあんたがホルダーなら別に良かったのにどうしてずっと逃げてたのよ、もう今更遅いわよ」という描写があった通り、元来は性的指向としてヘテロセクシャルであったことの方が直接的に描かれている。
では、トランスジェンダーなのかと言われると、それすらわからない。単にスレッタはミオリネを、ミオリネはスレッタのことを特別に感じている。
それだけである。両者の間に性的な感情が育まれていたのかも曖昧なままになっている。
つまり、まずもって「スレッタとミオリネが性的マイノリティだ」という理解そのものが勝手な思い込みだ。
2,スレミオと”結婚”
続いて、作中における"結婚"、特に”同性婚”についてだ。
結論としては、スペーシアンの間で同性婚は一般的であり、社会的に認められているが、スレミオの”結婚”が、制度的なものか儀礼的なものなのか不明である。
オタクが歓喜した「水星ってお堅いのね。こっちじゃ全然ありよ。」のセリフ通り、作中の支配体制側でもあるスペーシアンの間では、同性婚は一般化されている。
同時に、スレッタが戸惑っていたことから、スレッタの常識としては結婚は異性間で育まれるべきものとする文化圏の存在が明らかとなる。
では、この結婚=異性間というスレッタの常識の元となる文化圏はどこのものだろうか?
これは、スレッタの水星での幼少期が示された『ゆりかごの星』によると、スレッタの常識はライブラリにあった「地球圏の暮らし」を読む中で育まれていったことが明らかになっている。
つまり、『水星の魔女』の”結婚”に関する文化として、スペーシアンは同性婚も一般的であるのに対して、遅れているのは水星だけではなく、地球圏そのものの文化である可能性が極めて高い。
さて、ではここで再度スレミオの”結婚”に目を向けよう。
彼女たちはほぼ間違いなく”結婚”している。だが、それが”どこでどのような結婚をした”かは明らかにされていない。
そして、彼女たちは最終回の段階で、地球に住んでいる。
また、我々からするとどうしても”結婚した”といえば、法的な婚姻関係を結ぶ制度的な側面と、結婚式を挙げたり指輪を交わしたりする儀礼的側面をセットでイメージするが、彼女たちの行ったであろう”結婚”がどこでどの様にして行われたかわからない以上、制度的な”結婚”が行われていない可能性も否定できない。
指輪の交換や距離感などから読み取れる明らかに”結婚”している部分と、背景から考察すると”結婚”したか不確かな部分があるのである。
このことから、「『水星の魔女』でスレミオの結婚が修正されたこと=差別意識による同性婚の否定」なわけではなく、世界観の設定に準じた”結婚”と我々が抱く”結婚”の認識の違いに配慮した、まさに「解釈に任せ」るための修正の可能性が浮上する。
疑わしきは罰するべきではない。
3.スレミオと”社会的立場”
余談的ではあるが、”社会的立場”といった観点からスレミオ、特にミオリネについて考えたい。
ミオリネは社会的に極めて強い立場であるが、スレッタ及びプロスペラは障害を背負った社会的弱者であり、ミオリネはヤングケアラーとしての側面があるのだ。
まず、ミオリネ・レンブランは極めて特権的な支配階級の存在であり、少なくとも物語が終了した時点において彼女が同性愛者であることを理由に差別を受ける可能性は極めて低い。
前述のとおりミオリネが同性愛者である描写は無いが、仮にそのような性的マイノリティであったとしても、決して社会的弱者であるとは言えない。
一方で、彼女と”家族”になったスレッタやプロスペラ、そしてデリングは後遺症や障害を負っており、作中で描かれていなかった3年間、ミオリネはある種のヤングケアラーの状態であったことが想定される。
勿論、ミオリネを支えてくれる大人は大勢いただろうが、”家族”全員を一人で背負う立場になりながらもキッチリ大人になったミオリネは、現実の弱者と重ねて捉えるには圧倒的に強すぎる女性であると言える。
さて、これらの点から導けることは以下のことである
①スレミオは現実における性的マイノリティとはかけ離れた存在である
②スレミオが制度としての同性婚を行ったかは解釈の余地がある
では続いて、怒りの正当化に用いられている正義について考えたい。
Ⅴ.オタクは性的マイノリティの味方なのか?
ここでは、個人の内面に依拠することについて考察をする。
身もふたもないことを言うが、百合やボーイズラブが好きで、同性愛を祝福するような物語を要求することが実際の同性愛者の権利擁護に繋がるなどというのは、オタクの傲慢な虚妄だ。
私もそうだが、同性愛作品を好むオタクの大半は、好きな者同士で結婚すべきであり性別なんて関係ない、同性婚を認めるべきと考えているだろう。
同時に、「自分は同性愛者の味方である」と考えているのではないか?
しかし、同性愛作品を好むことが、同性愛者、そして性的マイノリティの味方になることへと繋がるのだろうか?
自分の胸に手を当てて考えて欲しいが、ただただ同性愛のコンテンツを消費するオタクであり、"同性愛を否定しない”だけではないか?
本当に異性愛者にのみもたらされている様々な権利や保障を同性愛者にも"認められなければならない"と考えられているだろうか?
・例えば、同性愛者にも子供をつくる権利がある。
・例えば、性別による所得格差は無くす必要がある。
・例えば、肉体は男性・心は女性・性的指向が男性の方からすると、男性更衣室を利用することは心理的抵抗があるため配慮が求められるべきだ。
これらのことは、自分が性的マイノリティの味方であると自認しているならば、認められてしかるべきだと考えているはずだ。
私は決して、同性婚を認めることだけで、自分が性的マイノリティの味方だなどとは思えない。
これら程度のことは当たり前のことだと認識してはいるが、それでもただの百合オタクにすぎないと自認している。
結局、当事者の権利獲得のために自らの利益を度外視して活動に手を付けない限り、安全圏から漠然と敵じゃないアピールをしているにすぎない。
イジメられている子を助けもせず、イジメはよくないと思いますと口だけは達者なのと同じだ。
もし、私が示した前提の通り、”結婚”の修正に対して「こんな修正を擁護するのは同性婚の否定だ!マイノリティへの差別だ!同性愛者の権利を守れ!」などと考えて義憤が沸き上がるのであれば、自身が本心で同性愛者を守るために怒っているのか、単に「”結婚”しててほしかったのに否定された!」という”解釈違い”でしかないのかを考えなければならない。
でなければ、アナタの怒りのせいで、『水星の魔女』という作品そのものが、「差別意識を持ちながら同性愛を商業的に利用したクィアベイティング作品」のような汚名ばかりが蔓延していくことになる。
私はファンとして、『水星の魔女』がそんな評価を受けていい作品ではないと思っているし、多くの人が直感的に抱いている怒りは的外れなことを伝えていく必要性を感じている。
Ⅵ.終わりに
はじめにでも述べた通り、公式の対応は迂闊だった。
対応の全てが憶測や批難の飛び交い易い方向に向かってしまっており、それなりの批判を受けることは覚悟するべきだ。
作品を知らない実際の性的マイノリティ当事者の方などから、厳しい意見も寄せられる可能性も高い。
私は、そのことを問題視しているわけではない。
それは迂闊なことをした公式の責任だ。
ただ、『水星の魔女』をコンテンツとして満喫した身で、公式に怒りをぶつけている人々が、その怒りは本当に正当性のあるもので、その怒りのせいで作品を汚すことをよしとするのかをもう一度問い直してほしい。
「公式のせい」などではなく、「ネガティブな怒りを振りまくアナタのせい」で、作品に傷をつけている自覚を持つべきだ。
正当な理由なき正義の行使は、暴力と変わらない。
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