30代として、先輩として期待されること

校種が変わって2年目。
キャリアは9年目だけど、足りないものの多さを感じる。
後輩たちは自信をつけている一方で、私はといえば30代としての働きを求められている。

20代の頃、先輩の姿から多くのことを学ばせてもらい、5年後や10年後の自分を思い浮かべながら過ごした。

先輩と自分は別の目指す方向や場所があり、たどり着く方法も違う。真似をしたらうまくいくというほど、単純ではない。キャリアを重ねれば重ねるほど、学ぶことは多くなっていくように思う。歩みを止めたとき、自信をもって毎日を過ごせなくなるだろう。

後輩の言葉は、本当に心を抉るような鋭さがある。足りないものを否応なしに突きつけられる。それも無邪気に。

なにしろ、後輩に言われる前に自分自身こそが落胆している。キャリアを重ねたとしても、苦手なことは苦手なまま。それを指摘されてしまえば、もうそれは首が地面に突き刺さるほどに納得するしかない。他人から見れば努力が足りないと思うようなささいことでも、自分にはいっこうにできるようにならないことはある。それをここぞとばかりに指摘されたら、どうしたらいいのだろう。

最近は心のもち方を変えることでメンタルを保ち、自分の良さや強みを最大に発揮する生き方、働き方を目指すようにしている。自分への肯定からスタートすると、心が揺るがなくなった。苦手なことへも前向きに取り組める心の強さが、成長につながっていると感じる。

教員の世界でよく使われる言葉に「子供が(保護者が)かわいそう」というものがある。これは心を抉る。「私」の存在に関わる問題になる。私でなければ問題なく過ごせたはずの時間を、私だったから問題になった、という意味に受け止めてしまうからだ。でもそこで、ふと立ち止まってみる。

発せられた言葉の正しさがあっても、それをどう受け止めるかは聞き手に委ねられている。どのようなことを伝えたいのか、どのような感情で発せられた言葉なのかにかかわらず、正面を切って受け止めるのか、自分より少し手前に置いて受け止めるのかは、聞き手が選んでよいはずだ。

以前までの私は、言葉の正しさゆえの鋭さにメンタルを削られてしまうことが多かった。30代に入り、メンタルの揺らぎが自分の働きにくさにつながっていることに気づき、人からの言葉の受け止め方を変えた。

自分より少し前にバリアがあることをイメージして、言葉を入り込ませないようにする。そうすると、「相手はそう思うんだな」と主語がはっきりするような気がする。「じゃあ、私はどう思っているの?」と自問することで、自分の心を大切にできる。ふんわりと受けるだけ。まるで、真綿の柔らかさで、衝撃を和らげるようなイメージで。まったく聞き入れないのは良くないけれど、こういうイメージなら、自分の心も守れて、相手の言葉を受け止めることもできる。

ここ最近の後輩の言葉は辛辣すぎる気もしているけれど、若さゆえかな。なんだか年をとったのかもしれない(笑)

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