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「本には読むまでの熟成期間がある」積読の肯定的な捉え方

本好き界隈にいると「積読」という言葉をよく耳にする。

積読、あるいは積読本とは、「買った本を読むことなく、自宅で積んだままにしている状態の本」のことだ。

え、買ったのに読まないの?

と、本を読まない方は思うことだろう。

買ったら読む。それが当然のことのように思える。たとえばこれが本ではなくコンビニ弁当であれば、買ったら食べるのは当然のことだ。食べるために買うのであって、わざわざ腐らせるために買うような人はいない。同じように当てはめると、読むために買うのであって、読まないのに買う人はいないということになる。

弁当とは違って、本は腐らない物ではある。消費期限もないので、とりあえず買って自宅の本棚に入れておけば、1ヶ月後であろうが半年後であろうが「読もう!」と思ったときに読むことができる(という話で進めるので、ここでは返却期限のある図書館の本は除外することとする)

じゃあ、積読した本を1ヶ月後や半年後に読むのかといえば、そういうわけでもない。

本を読まない方からすれば「え?どういうこと?」であろう。

買う=読むではないのだ。

「その本を所有している」という所有欲のために本を買うのだろうか。あるいはそういう人もいるだろう。

今は他の本を読んでいるから読めないけど買う。好きな作家さんの本だから買う。業界を応援するつもりで買う。

理由は様々だが、いつかは読むつもりで買っている。

と、思っていたのだが、先日本屋さんを訪れたとき、すれ違った学生二人組がこんな会話をしていた。

「本は読まんでええねん。読むのはアホやで」

「せやな」

なるほど?

それはどういうことか。

その学生二人組が結局本を買ったのか、時間をつぶすために本屋に寄っただけなのかは分からないが、少しばかり考えさせられる出来事だった。本屋に寄って、本を買ったとして、読むのはアホなのだと。その場合、最初から読むつもりがないのだから積読でもない。いや、これも積読か?

インテリア目的だったりするのだろうか?

そんな風に考えてみると、本を買う理由はもっと他にもあるだろうなと思った。というか、もっと色んな理由があって良いだろうなと思った。

装丁(本の表紙等)が好きだから、といった理由から買う人もいるだろう。賢く見えるから、という理由で買う人もいるだろう。

買っても読まないという選択肢もあるのだ。あっても良いのだ。

読書には時間がかかる。文字数にもよるが、その日に一気に読み終わることもあれば、じっくりと数ヶ月かけて読むような本もある。なので、もしも買う=読むとなってしまうと、しばらく本が買えないことになる。本に携わる業界からすれば悲鳴をあげてしまう事態だろう。

数ヶ月かけて読んでいる間、他の本に目移りしないかと問われれば、目移りする。人によっては二冊以上の本を同時期に読むこともある。私だ。私は併読派なので同時期に4、5冊の本を読んでいる。当然ながら1冊を集中して読むのとは違って読み進めるスピードは遅くなる。あ、同時ではなく同時期である。自宅ではA、通勤電車ではBといった風に、時と場合によって読む本を変えるのだ。それだけやっても、読みたい本は次から次へと出てくる。これを読み終わったら読もう、と思って積読になること前提で本を買うことが多々ある。

しかし、積読本の厄介なところは、本を買う瞬間は「これを読み終わったら読む(から買おう)」と思っていても、いざその時になると別の本に目移りしてしまっていることが多々あるということだ。積読本は積読本のまま、半年どころか一年、二年、三年と一ページも読まないまま本棚に埋もれていたりする。

さて、ここまで積読本あるあるを書いてみた。本好きな皆さんには「分かる分かる!」と思っていただけたのではないだろうか。積読が良いか悪いかを論じたいわけではなく、ともかく「買っても読まない本」があるということだけ認識していただければ満足だ。


本題に入ろう。

私はどうなのか、試しに数えてみた。


まず、「読んだ本」に関して。
これは読書メーターに記録しているので、チェックしていただけたら幸いなのだが、面倒くせいやいという方のために冊数だけお伝えしよう。2024年5月末時点で1201冊だった。

2015年からの記録なので、それ以前の分は私自身も分からない。あと漫画も入れているので「漫画はノーカウント!」という方には何も言えねえとはなるが、一応参考程度に。



次に「今読んでいる本」だが、こちらは7冊だった。

『姑獲鳥の夏』は今最も楽しんで読んでいる本だ。読書会でたびたび京極夏彦先生の名前はあがっていたのだが、ボリュームの多さに怯んでこれまで敬遠していた。私には無理だと思っていた。ところが、一度読んでみたところ冒頭から面白く、「読める……読めるぞぉッ!!」となり、「え、シリーズあるよね、このボリューム感で全部楽しめるってこと?!しかもネタバレくらってない身で!!」と、幸せな気分に浸っている。自宅にいるときは隙あらば読んでいる。

『日はまた昇る』は次の課題本にどうかなーと手にとっているところで、まだ読み始めたばかり。読みやすいので良い感じ。

『追想五断章』は先日の読書会で紹介されて気になり即日購入、届いてから早速読み始めている。通勤電車内で読んでいるのでペースは遅いがマイペースに楽しんでいる。



『R62号の発明・鉛の卵』は先日安部公房の『箱男』を課題本に読書会をしたので、その流れで。進みは遅いものの、じっくり安部公房ワールドを楽しんでいる。

『文章読本』はだいぶ積読していたのだが、三島由紀夫版を読んで面白く、谷崎潤一郎版にも挑んでいるところ。文字数びっしりだけども「御覧なさい」が気に入っている。

私には「読書会で同じ本を2回紹介されたら読む」というマイルールがある。俄然興味が増すからだ。その派生になるのだと思われるが、『ミュージック・ブレス・ユー!!』は、読書会に参加されている方の中に津村記久子さんが好きな方がおられて、その方からすすめられた方が読書会で紹介した本。その日は津村記久子さんの話題になり、仮に私が読むとしたら最初は何が良いか教えてもらったところ『ポトスライムの舟』を教えてくれた。『ポトスライムの舟』を読んでみたところ面白く、こちらにも手をつけた次第。



純文学やSFばかりを読んでいると、私は「ミステリーが読みたーい!」という衝動に襲われる。そんなときに限って「こういうミステリーが読みたかったんだよ!」という本を積読してなかったりする。
『春季限定いちごタルト事件』は、そんなときに『満願』や『氷菓』が面白かった米澤穂信さんを思い出したものの書店に行く時間がなく通販で届くのも待ち切れないということで電子書籍で買った本だ。そのため写真はない。私は本を開けないときにはスマホでネットニュースを見ていたのだが、その時間が電子書籍で本を読む時間に置き換わった。電子書籍も良いぞ!



そしていよいよ「積読本」だ。

数えてみたら65冊あった。一気に紹介してしまっても良いのだが、ここで私は積読本を二つに分類したいと思う。

「近々読むつもりの本」とそれ以外だ。

まずは65冊のうち「近々読むつもりの本」にあたる13冊を紹介しよう。

こちらの3冊は「ミステリーが読みたーい!」となった時に備えて積読している本だ。私の「ミステリーが読みたーい!」は、カッコ付きで「ミステリーが読みたーい!(けど読んだことのある作家さんで安心しながら読みたーい!)」だと最近気付いたので米澤穂信さんの作品を入手しておいた。



こちらも同じく「ミステリーが読みたーい!」対策だ。上の3作とは違って未読の作家さんの本ではあるが、『本格王』自体は2022、2023のものを読んでいて安定感が分かっているし、『占星術殺人事件』も島田荘司さんのお名前は読書会でたびたびお聞きするので、やはり「ミステリーが読みたーい!(けど読んだことのある作家さんで安心しながら読みたーい!)」基準で選んでいる。



こちらは読書会で紹介されたケイト・モートンが気になり手に入れた本。



『ヘブン』は一度読書会の課題本候補になった本。『送り火』は読書会で紹介された本。『傘をもたない蟻たちは』は加藤シゲアキさんの中でものーさん好きかもとオススメしていただいた本。ちなみに一度買ったのを忘れて注文したので二冊あったりする。



こちらは課題本候補の三作。

これら13冊はリビングの本棚に入れているので、目にする機会がある本たちだ。今読んでいる本を読み終えたら読み始める確率の高い本たちである。



残るは52冊。

こちらは一気に写真でお見せしよう。

52冊は全て私の部屋の本棚に入っている本だ。

一度はリビングの本棚に入っていたものの、読まないまま私の部屋の本棚に入った。たまに本棚を眺めてニヤニヤすることはあるが、何かしらのキッカケがない限りこちらの本を取ることはない。

仮に、リビングの本棚にある本を「積読本の一軍」としたとすると、私の部屋にある本は「積読本の二軍」ということになる。しかしランク付けするのは好ましくない。一軍二軍の分け方は、「読むかどうか」が基準になっている。その基準だけで本に優劣をつけるのは、どうもしっくりこない。

52冊の本たちが二軍なわけがない。単に今の私の読みたい気持ちにタイミングが合わなかっただけである。

合わなかった理由はいくつかある。

一つは一度課題本候補になった本。これに関しては、課題本になった本を先に読むことになるのでどうしたって後回しになってしまう。アンケートで数名から投票があった場合は次の月も候補になるが、それでも選ばれなかった場合は本棚に一旦戻すことになる。ただ、一度課題本候補になった作品は次の課題本どうしようかなーと悩んだときに真っ先に眺めている。アンケートだけでなく私が選書するパターンもあり、そういうときにはあらかじめ持っている本から選ぶことが多い。リビングの本棚入りをすっ飛ばして「今読んでいる本」になり、読み終わる前に「あ、面白い」となれば課題本になるケースがある。課題本になれば読了まで一気に進む。

既に何作か読んで知っている作家さんの本もある。これらは面白いと分かっているので、読むのを楽しみに置いているパターンだ。特に朝井リョウさんの作品なんかは一時期むさぼるように読んでしまって未読の本が少なくなっているため、「朝井リョウさんの本が読みたーい!」となったとき用に置いている。辻村深月さんや村田沙耶香さん、森見登美彦さんあたりも、2、3作読んでいるので、読みたい時期が来たときにすぐ手に取れるよう置いている状態だ。

名著と分かっている本もある。これらは一番手に取る機会が少ないのは確かだ。たいていの場合、買ったは良いものの一切手をつけないままになっている。面白いとは分かっていても、課題本にでもならない限り読み終わっても誰かと語ることができないので、私にとっては読書にいたる動機がないのだ。

同じようにテレビで取り上げられた本や何かしらのランキングに入った本、SNSで話題になった本もある。私自身も面白そうだと思って買うし、おそらく面白いんだろうなと分かっているので、もうワンステップあれば読もうかなというところだ。

読書会で紹介されて興味が湧いて買ってみた本も沢山ある。紹介されたときにあらすじが分かってる状態で、しかも紹介者の顔も浮かぶので、買った本は比較的早めに読んでいる。ただ、内容によっては自分自身がどういう気分のときに読みたくなるかある程度分かるものもあり、それらはその気分になるまで置いている状態だ。

このように、52冊の本たちには何かしらの理由があり、ただ単に積んでいるわけではないのだ。

ちなみに「積読」という言葉が生まれたのは明治時代らしい。

なぜ、こんな話をしだしたかというと、「積読」あるいは「積読本」という言葉が独り歩きしはじめているような気がするからだ。

明治時代に生まれたと言われても、まあ私たちは生まれてもいないわけでピンとはこないだろう。本好きな皆さんも、知ったのはここ最近ではないだろうか。

かくいう私も、「積読」という言葉を知ったのは読書会を主催してからになる。今では当たり前のように使っているが、参加者の誰かが使っていたのを聞き、使い勝手が良くて自分でも使い出した。たとえば「読書スランプ」という言葉もそうだ。ネットスラングならぬ読書スラング、本好きな人たちしか使わないような言葉は色々とある。

これらの言葉は何となくのニュアンスで本好き界隈の人たちが使い、いずれは一般にも普及するものもあるかもしれない。普及していけばいくほど、言葉には様々な装飾が加わり、元々の意味とは違う意味で広がったり、ポジティブな印象やネガティブな印象などの良い悪い印象も加わったりする。

まあ、だからなんだという話だが、もしよければ下の記事を読んでみてほしい。

推し本という言葉もここ最近ちらほらと見かける。使っている人の中には、私が「積読」や「読書スランプ」を使い始めたときのように、周りの誰かが使ってたから何となく使い出した方もおられるだろう。

当時調べた限りでは「推し本」という言葉は読書会界隈では使われていなかった。少なくとも私は誰かが使っているのを真似したわけではなく、読書会の告知をする上で「おすすめの本」だと六文字だから長いナー、短く出来んかナーと考えた中で生まれたものである。そして推しは披露したいもんだという発想から「推し本披露会」という名称とした。読書好きな方々の検索に引っかからない可能性があるので(読書会)とは入れているが、厳密には「推し本披露会」は読書会ではなく、自分の推しを披露する会なのだ。だからこそジャンルはフリーとしている。以前、写真集をもとに推している芸能人を披露された方もおられたがそういうのは大好物だ。それは、推し本を知りたいのは大前提だが、紹介者の熱い紹介を聞きたいという思いもあるし、そもそも会を行うのも居場所づくりが目的だからだ。たまにジャンル限定のときもあるが、その際には「漫画限定読書会」や「ミステリー限定読書会」としており、披露会にはしていない(あ、どんどん脱線してるのでまた別の機会にしよう)

脱線した。この話は長くなるので軌道修正。

そうだ、積読の話である。

積読の良し悪しを論じたいわけではなかったのだが、実はこの記事は二週間くらいかかっていて、書いているうちに肯定的に捉える方向で書きたくなってきた。ので書く。積読は良いゾ!!

ただし、ただ単に面白そうだからと買って後に積読にするのも良いのだが、わたしはここに新たな概念を提唱したい。

「熟成」という概念だ。

上の方では弁当と比較してたとえたが、本はワインにたとえてみると良いかもしれない。そうすれば、積読状態にある本たちは、買って読まないでいる本ではなく、自分の中で熟成している本、いわゆる「熟成本」として前向きに捉えることが出来る。

とはいえ、全ての積読本が熟成本になるかというとそれもまた違う気がしている。積読を熟成に置き換えることはできない。

積読のうち、本と私の間に物語が生まれると、その本は単なる積読ではなくなり熟成が始まるのではないかと考える。

例をあげよう。

読書会に参加すると、様々な人からおすすめの本を紹介される。あらすじを紹介してもらうこともあれば、紹介者の実体験とあわせて紹介してもらうこともある。これが本と私の物語となる。紹介されることにより、Aという本は私にとって「〇〇さんが紹介した本」となる。すると、紹介されるまでは書店に行っても見逃していたかもしれない本Aが途端に目に入るようになる。ここらへんは子育てをし始めると途端に周囲の子どもの声が耳に入ってくる感覚と同じだ。「あー、あの人が紹介してた本だな」なんて風に思い出し、手に取っちゃう。買っちゃう。読んじゃう。といったことが起きる。読むかどうか、はたまた実際に買うかどうかもさておき、読書会で紹介された時点で物語は始まり、私の中でその本の熟成が始まるのだ。

実際に家にある積読本は65冊だったが、この考えでいくと熟成本は実際に手元になくてもカウントできるようになり、私の場合は100回以上推し本披露会をしているのでとんでもない数になる。そのとんでもない数の本たちによって、たとえまだ読んでいなくても自分の内面が形成される。また単純に書店に行ったときに、帯やポップ以外に目にとまる本が増える。

ちなみに、読書会で紹介された本はちゃんと読んでこなきゃなんて考える必要はない。紹介された時点でもう「熟成」は始まっているからだ。機会がきたら読む。それで良いのだ。

ええと、結局何の話だっけ?となるのがいつもの私だが、ここで最後のリンクを貼ろう。

これは2017年の年末。まだ読書会を2回しか開催していなかった頃の記事だ。私は「本と自分の物語をつくっていこう」というタイトルで毎年記事を書いていた。去年はうっかり忘れていたが、この「本と自分の物語」が何なのか、いまいち私自身も分かっていなかった。この度この記事を書いてみて、つまりそういうことなのだと分かった次第だ。

推し本披露会も課題本読書会も、本を熟成するのに適している。自分自身の内面を豊かにすることができる。

読書は一人でするものだと思い込みがちだが、そうではない。本は孤独に寄り添ってはくれるが、だからといって孤独になる必要はないのだ。読書会で人との交流を広げ、自分の熟成本を増やし、内面を豊かにすることが、本好きならばできる。

そして。

そんな熟成本を得るのに最も今アツくておすすめなイベントがある。

それがこちら。

ええええ、ここまで来て告知だとォーーーッ?!

と、思われた方、申し訳ない。そんなつもりはなかったのだが、やはり今の時期はここに帰結する。

6/30、大阪では7周年イベントを行う。通常回よりも、より思い出にもなること間違いなしのイベントだ。

このイベントで紹介された本は、数年経っても「あの時に紹介された本だ」と思い出す機会になるだろう。一周年イベントに紹介された本を5年後に手に取った経験がある私が言うのだから間違いない。

読書好きならば、参加しないという選択はない。

何が引っかかる?

何も引っかかることはない。

私たちは、あなたの参加を待っている。



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