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自分らしく生きられない人間廃棄物

自分らしく生きられない者を、社会学者のジークムント・バウマンは「人間廃棄物(wasted humans)」と呼んだ。

何回、「将来の夢」を自己紹介カードに書かされただろう。
何回、「何者かにならなければならない」という遅効性の毒の杯を飲んだだろう。
子どもの私は何も知らず、将来に期待を抱きながら嬉々としてその杯を飲んでいたとは何という悲劇だろう。

毒が効いてきたようだ。

何者にもなれなかった私の横顔を覗きこんでいる、幾人もの光り輝く私。
建築家、医者、薬剤師、社長としての私が今の私を嘲笑っている。

「そんな嘲りなど無視すればいい、これからの自分を自分らしく生きればいい」という声も私の中から聞こえてくるが、そうはいかないのだ。
この時代、何者かになれなかった人は「努力しなかった」と落伍者の烙印を押される。
この烙印を晒しながら生きれないほどに傷つきやすくプライドが高いのだ。

「自分らしく」という言葉が効果を示すのは、今まで自分らしく生きてこれなかった人たちにだ。
女性、LGBT、障がい者などの属性を持っている人には、「あなたのままでいい。自分らしく」という言葉は救いだろう。
そこでは、個人的アイデンティティを獲得するに至るだろう。
たとえ社会的アイデンティティを手にしなくとも、自己同一性は保たれる。

私はどうだろうか?
「これからの自分を自分らしく生きればいい」という内なる声に耳を塞がなくてはいけない理由はなんだろうか。
男性として日本に生まれ何不自由なく育ってきた。
これだ。
言うなれば私には特筆すべき属性がないのだ。
レディースデイ、障がい者割、(TVや広告での)配慮がないが故に、自分が何者なのか、自分の属性が何なのかわからない。
アイデンティティがないのだ。
国粋主義者、愛国者にでもなれたらいいのだが、生憎そのような興味はない。
適当な宗教の信者にでもなれたらいいのだが、生憎神は信じていない。

そんな、透明で存在が忘れ去られている日本男児が私なのだ。
競争の中で何者かにならなくてはいけなかったが、私は何者にもなれなかった。
それは努力が足りなかったのか?
いいや違う。
ただ運がなかったのだ。
親ガチャ、遺伝、才能、環境……。

「自分らしく生きる」ことを是とする世の中で、自分が見つからない私は人間廃棄物。
モノは目的があって作られる。
椅子、本、服……。
その工程で必ず廃棄物が出る。
木くず、端切れ、糸くず……。

私は人間廃棄物。
リサイクルできますか。
輪廻転生にでも期待しますか。

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