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旧東海道歩き162 石部宿と江戸時代の東海道往復の費用

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石部宿に入る

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道の写真は撮りづらい。。。

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日本橋が左で京都が右に
東西が逆になっていて気持ちが悪い
・・・道路の向き的にこれが正しかったんだろか。

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石部 目川の里
京立ち石部泊まりと言われていて、京都を出て1日目に泊まる宿場町

改めて、宿場の収容可能人数を見たけども、石部宿 490人だから、そんなに大きい宿場町でもない。
で、京立ち石部泊まりでこの規模ってことは、まぁ、京都の公家、参勤交代しないもんな。

江戸時代の三都の人口
例えば、幕末の1850年
江戸 1,150,000
大坂 330,000
京 290,000
で、改めて、宮宿の3095人っていう収容人数の多さが異様なのだけど、改めて旅籠の数を見たら小旅籠が179個って飛びぬけて多い。
小旅籠が多いってことは、庶民の宿泊ニーズが多かったってことなんだろうな。
ちなみに、次に小旅籠が次に多いのが桑名宿で78。
お伊勢参りの影響、すごい!

そして、片道15泊で行きは東海道で伊勢神宮、帰りは中山道で善光寺参り、と。
江戸時代の人たち、ほんと、健脚!
あと、費用、これ、計算の仕方が難しいのだけど。
たとえば、このページの、昼食代が70文~80文、蕎麦が1杯16文
となると、ざっくり、1文10円ぐらいの計算。
で、1日の必要最低経費を300文として、東海道往復が 300 x 30 = 90,000文、メチャクチャざっくり 90万円
・・・これ、ざっくり過ぎますが・・・
まぁ、決してお安い旅では無い。

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さて、石部宿の浮世絵
こちらにも良いところのおかみさんと上女中2人と両掛挟箱を持った使用人だろか。

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3人ほどふざけた人たちと、いせやという田楽茶屋
そして、馬が柱に繋がれてる。

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そして、現実世界ではサクッと西縄手を通り過ぎていきます。

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