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学びを繋げる


 私の趣味のひとつに、図書館を歩くことがある。

 本屋ではなく、図書館。

 目的の本を探すわけでもなく、読む本を選ぶのでもなく、ただ背表紙を眺めながらゆっくり歩く。勉強の休憩を文言にはしているが、休憩というよりもう楽しんでしまっている。

 そうしてフラットに本棚を見ていると、吸い寄せられる本が必ずある。

 この前に出会った本は
「にほひ」著:加福均三

 黄ばみがあっていかにも古い本だというのがひと目で分かったし、専門書特有の堅い題名が並ぶなかで、ひらがなで書かれた柔らかい「にほひ」という余白をもった背表紙は、森のなかで突如現れた湖のように清々しかった。

 手に取って表紙を見ると、文字は現代とは違って右から左に書かれている。

 私はどんな本でもまず1番後ろのページをめくって、出版社や発行年月日を確認するのだが、それは昭和17年に発行された本だった。西暦だと1942年。戦時中だ。


 本屋ではなく図書館を選ぶのはこういう理由がある。
 新しい本ばかりで、話題の本が目立つようレイアウトされた本屋では、出会うことのできない個性を持った本が多くある。

 地名が金や銀に箔押しされた、両手に抱える大きさの写真集だとか、布クロスの色合いが美しい装丁の本を見つけると嬉しくなる。
 花や鳥を見つけたように、じっと見つめてまた歩く。


 図書館の本は、たくさんの人が手にとった経過を感じる。
 鉛筆やマーカーで線が引かれていたり(本当は良くないことだけど、もしかしたら個人が寄贈した本なのかもしれない)、それこそ黄ばみがあったりカバーがなかったり。

 「にほひ」も脆くなった背表紙がテープで補強されていた。そうやって大切に手が加えられた経過を私はとても愛おしく思う。



 さて、話は変わって私はもうひとつある本に引き寄せられて手に取った。

「声に出して読みたい日本語」著:齋藤孝


 なぜこれに惹かれたかと言うと、以前読んだ本に書かれていたことが思い出されたから。

 作者の精神性を取り入れるには朗読が良い。身体的な行為とすることですり込まれ、武道をする人の精神のように身につく。これは黙読ではできない。

 その学びを取り入れるのにぴったしな本だと思ったのだ。

 しかし、ふと思う。
 この著者の名前、見たことあるな…

 おもむろにスマホで調べて納得してしまった。
 この以前読んだ本の著者が、同じく齋藤孝さんだったからだ。

「20歳の自分に伝えたい知的生活のすすめ」
著:齋藤孝


という本だ。

 学びは頭のどこかに仕舞われていて、ふとした瞬間に結びついて手のなかに飛び込んでくる。
 縁のようなものだ。


 手に取った「声に出して読みたい日本語」
をぱらぱらめくると

「風の又三郎」著:宮沢賢治
の冒頭が書かれていた。

どっどど どどうど どどうど どどう

「風の又三郎」著:宮沢賢治

 懐かしいな。と思う

 いつか読んだ小説に、風の又三郎を朗読する女性がいた。その女性がどっどどどどうどと言っている。

 その女性が出てくる小説が
「月曜日の抹茶カフェ」作:青山美智子


 どんどん繋がっていく。
 本から本へ、バトンが渡されている。


 宇宙がどんな学問からでも語れるように、一見ひとつの学びだと思っているものはどこかに繋がっている。

 それを見つけたときの喜びや楽しさが、本当の学びなんだろうなと思う。

 教養は引用力というようだし。(これはどの本で言っていただろうか…)


 私はたくさんの学びと繋がっている。またいつか図書館を歩いて本を引き抜くとき、新たなバトンが渡されて、果てしない旅路を見る。



追記
 月曜日の抹茶カフェをまた読みたい…青山美智子さんの小説好きで文庫が出たらお迎えするのだけど家の本棚を見てもなかった。失念…赤と青のエスキースもまた読みたい。文庫は出てる…?まだかな…
 あと木曜にはココアをのカウントダウンがとても好きなのでそれについてまた書きます。わくわく


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