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死にゆく言語を義務教育とする意義は何か?

こんにちは、アイルランド在住会計士のつぐみです。

アイルランドは日常的に英語が使われる国なのですが、かつてゲール語と言うアイルランド独特の言葉が広く話されていました。しかし、今はアイルランド西部の一部地域でしか話されていない「死にゆく言語」と言われています。

それにもかかわらず、ゲール語はアイルランドの小中高での必須科目(外国人など一部特例免除はあり)。そして基本的には大学入試でも必要とされます。実用性のない言語なのに。

私はかねてより強いゲール語義務教育廃止派だったのですが、とあるきっかけにより、その意義を見直す機会に恵まれました。
死にゆく言語を義務教育にする意味は一体何なのか?



ゲール語とはどんな言葉?

ゲール語(Gaeilge)は、ケルト語の一種であり、アイルランドで紀元前4世紀から話されてきました。英語とは異なる独自の文法と発音を持ち、語順や文字表記も異なります。たとえば、"Dia duit"(こんにちは)は直訳すると「神があなたに」という意味。ゲール語がラテン文字を使用するものの、特有のアクセント記号や単語の変化に英語との違いがみられます。

英語が日常的に使われる現在でも、警察はGARDA(ガーダ)、首相はTAOISEACH(ティーショク)などと、ゲール語がそのまま使用されていることもあります。

しかし、冒頭でも述べたようにこのゲール語を日常的に話すのは、アイルランド西部の一部ゲールタハート(ゲール語を話す地域という意味)であり、日常的にゲール語を話す人々は73,000人程度だと言われています。アイルランドの人口は400万人程度なので、いかに少数派かわかると思います。

それでも、アイルランド政府は、この死にゆく言語を守るべく、アイルランドのすべての小学校中学校高校に置いて義務教育としています。しかし、実用性のないゲール語、ただの座学と化しており、何年にもわたる教育の結果、ゲール語を話せるアイルランド人はほとんどいません。一昔前の日本の英語教育も真っ青の、アイルランドのゲール語教育。

ゲール語を習得するのは、日常的にゲール語を使うゲールタハトで生まれた子達か、ゲール語で授業が行われるゲールスコイルナという小学校に通う子達。全体の小学校のうち、約8%がゲールスコイルナであり、ゲール語を子供たちに習得させるためにこれらの小学校に通わせる親御さんたちもいます。

このゲール語義務教育論争はかつてから盛んであり、ゲール語を義務教育から外すか否かの論争が繰り広げられています。
私は自身が英語習得に苦労した経験からも、語学学習コンプレックスがあり、強烈にゲール語義務教育廃止信者だったのですが、その主な論拠はこちら。


ゲール語義務教育

反対派の主張

実用性の欠如:何をおいてもこれ。7万人強しか使わない言語を、なぜ国民400万人が学ぶ必要があるのか。英語が主流である現代のアイルランドにおいて、ゲール語を学ぶことは時間と労力の無駄だと主張する人も多くいます。
古代エジプトの象形文字ヒエログリフについて、その美しさや価値を否定することは誰にもできません。人類の貴重な財産です。しかしそのヒエログリフを、ただ文化保護という名目だけで、義務教育として習得させる国があったらどうでしょう。現実に乖離してると思いませんか?

教育負担の増加:ゲール語の必修化は、生徒や教師にとって過度な負担になるとの意見もあります。他の主要科目に注力すべきだとし、ゲール語の教育にかける時間やリソースを再考するべきだと主張されています。
現在、教師になるためには本場のゲール語を学ぶため、ゲールタハトにて1年留学する方も多くいます(必須ではないらしい)。

財政負担の増加:ゲール語が公用語であるばかりに、国の文書や正式な書類は英語に伴いゲール語でも作成されます。国の機関として「ゲール語翻訳官」も存在し、英語ネイティブたちに向けて、ゲール語文書を作成しています。国の機関なので給料はいいけど、誰も読むことのない文書作成はやりがいのない苦痛な仕事と言われています。

自由選択の尊重:言語教育は個人の自由に委ねるべきだと考えてる人が多くいます。特に、ゲール語に対する興味や必要性がない生徒にとって、強制的に学ばせることは非効率であり、不公平だとする見解もあります。柔軟な頭を持つ若い世代が、少なくない時間を「強制的に」ゲール語に費やさなければならないのは非常に残念だとも言えます。
英語教育が「実用性の面から」必須となっている日本人にはあまり理解できないかもしれませんが、アイルランドには実用性を無視した、ただ語学を学びたくて語学を学習している人たちが多くいます(日本にもいるけど、私はあまり多くの趣味語学学習者を知らない)。
彼らは英語ができるので、第二外国語を趣味や教養の範疇に置き、自らの意思で学ぶことができるのです。在アイルランド日本大使によると、100人当たりの日本語話者数が一番多いのはアイルランドらしい。英語ネイティブだからこそ、彼らにとって全く実用的とは言い難い日本語を第二外国語として選択し、自ら学ぶ人たちが比較的多い国なのです。その自由選択を取り上げるゲール語義務教育って必要なのか?

賛成派の主張

一方で賛成派の主張は単純で、文化の保護と継承に集約される。私は先に述べたヒエログリフ理論で、この文化保護と継承を声高に唱える人達に反対していました。語学はツールでしかなく、使われないツールは淘汰されるべきだと。

しかし、最近この本を読んで、少し気持ちに変化が。(驚きのアンリミ・Audible対象)


アイルランドの歴史は、ざっくり知っていましたが、恥ずかしながらこれが初めて読んだアイルランド人による歴史本。アイルランドが独自の文化を持っていたのに、英国の植民地時代に自国の言葉を取り上げられ、宗教を取り上げられ、文化を取り上げられた弱国の悲哀が語られている。

「義務教育でゲール語を教えることは、若い世代がその文化的遺産を継承するための重要な手段である」とか、「ゲール語はアイルランドの歴史や文化に深く根ざした言語であり、その保護は国のアイデンティティの維持に不可欠だ」とか、きれいごと過ぎて右から左へ受け流していた言葉が重みをもった瞬間でした。

アメリカ好きな日本人と、イギリス嫌いなアイルランド人

日本は植民地となったことがありません。言葉や文化を強制的に取り上げられた経験がないのです。
私はアイルランド人に何度か、「なぜあんなにアメリカにひどいことをされたのに、日本はアメリカが好きなのか?」と聞かれたことがあります。

確かに、二度も原爆を落とされているのに、日本人はアメリカが大好き。憧れや夢の対象でさえある。なんでだろう?

戦時中の悲惨な史実はあれ、少なくともアメリカは、日本に英語を母国語とするよう強制することはなかったし、独自の文化を尊重してくれた(ように見える)。日本人がアメリカ嫌いにならなかったのは、アメリカの戦後処理がうまかったこともあるだろうし、戦後の急成長はむしろアメリカのおかげでさえある。

イギリスは強制した。イギリスは自国の文化が最善最良と信じ、アイルランドを含め、植民地国の文化を野蛮とみなし、強制的に変化を押し付けた。言語も文化も宗教も、自国の信じるものを相手にも押し付けたのだ。

現在、英語ができないと資本主義というルール下で大勝しづらくなっているのは事実だし、植民地化の結果、実質英語ネイティブ国、としてのメリットを享受している側面もある。

しかしアイルランド人はその頃の恨みを忘れていない。ゲール語を話すことを禁止され、英語で支配者階級と会話しなければならなかった時代を。

そこまで理解して、私がアイルランドの生半可な歴史の知識を持って、ゲール語義務教育廃止―!、実利ないからー!と叫んでいるのはおこがましかったかもしれない。

主張の背後にある事実を知る

日本は植民地支配を受けた経験がない。だからこそ、アイルランド人の「イギリス嫌い」を完全に理解するのは難しいかもしれません。アイルランド人にとってイギリスは、文化や言語を奪った存在。だからこそ、ゲール語を守りたいという感情は、私たちが想像する以上に深いのです。

誤解のないように言いますが、アイルランド人は、イギリス人だからどうとか差別を行うようなことはしません。イギリスが行った仕打ちを忘れておらず、その教訓を未来へ活かそうとしているだけです。

そんなアイルランドの歴史を知ることで、ゲール語を義務教育から外すという主張が、単なる「実利」の問題ではないことに気づかされました。ゲール語義務教育論争の上辺だけ知り、対立派の本質的な理由を知らず、自分の利益のための主張をしていた自分が恥ずかしくなりました。アイルランドの文化や歴史に対する理解が深まるほど、この「死にゆく言語」を守ることの意義が見えてきたのです。

コミュニケーションの基本はまず相手を知ることから。アイルランド滞在12年目にして、まだまだアイルランドのことを知らない自分を反省したとともに、奥深い歴史を持つこの小国をますます好きになった出来事でした。

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