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 教育の機会均等とは、全ての国民が家庭環境や地理的状況に関わらず教育に関わる選択を取れる状況を担保することにその目的があります。そのためには情報の平等、学びの平等、そして経済力の平等の3つの要素が必要です。

 情報とは自分がとり得る選択肢自体を増やすこと。以前のコラムで都市圏で暮らす子ども達の方が、地方で暮らす子ども達よりも将来への選択肢が多いと書きました。今はスマホなどを使って「情報」そのものは比較的平等に得ることができるようになっている一方、大切なのはその情報がリアルを持って彼らの選択肢として機能しているかどうか。

 学びとは自分が進みたい道へ辿り着くために必要な知識・技能・思考を獲得すること。それらを獲得するためのツール(学校、塾、予備校、各種学習アプリなど)の充実が、子ども達の学びを促進するために必要不可欠。

 そしてその根源にあるのは「経済力」です。資本主義社会で暮らしている私たちは、各家庭の経済力には当然違いがあり、その力が大きければ、その分教育に投資できる。だからこそ公教育が様々な選択肢を提示することで、その格差是正への対策となりうる。

 『教育にお金をかけない「日本」で育つとどうなる? 現代人の貧しい“当たり前の感覚”』という記事を見つけました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/83b8397a3b36b92a80d08c0d4b3cc3742840c074?page=1

 経済評論家の加谷珪一氏は記事の中で北欧諸国における家庭の教育負担額と比べ、日本の負担が大きいことを指摘しつつ、教育に対する個人負担の額が高すぎて、多くの人が十分な大学教育を受けられない状況に警鐘を鳴らしています。

人類の歴史を見ても「富」は非常に限定された一部に集まり、その他大勢にはほとんど回ってこないという構図がある。

同氏は

 教育に対する価値観は人それぞれだろうが、社会的、経済的に成功した人が、将来世代に対して機会の平等を望まないというのは、経済成長という観点からすると由々しき事態と言って良い。成熟した資本主義社会においては、努力して成功を勝ち取った人は、これからチャレンジする人を支援したいと考えるのが普通である。自身は豊かな生活をしているにもかかわらず、機会の不平等を肯定する人が増えているという現実は、日本全体が息苦しい状態になっている、あるいは富や地位の世襲が蔓延していることをうかがわせる。

と述べています。

 もちろん北欧諸国と日本では国家の規模やそれに呼応する税金など各種システムの違いがあるので、単純な比較をすることはできません。しかし、国民のための国家が「教育の機会均等」の価値を再認識することが大切なのです。


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