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#522 事実が全ての出発点〜水原一平氏の報道から考える〜

 連日、大谷翔平選手の通訳である水原一平氏のニュースが報道されています。私個人としては、彼の今回の報道は非常に残念であるし、被害者となった大谷氏は非常に困難な時間を今も過ごしながらも、連日プレーをしている姿を尊敬しています。

 TBSの情報番組「ひるおび」でも水原一平氏の事件に関する報道がなされていました。番組のコメンテーターで落語家の立川志らく氏は、今回の事件に関する私見をSNSで発信しています。

 大手メディアが事実に基づかない憶測の中で物事を報道することへの警鐘は私も共感するところではあります。著名人や公人に対するいわれなき報道には、その人たちを陥れようとする悪意や、金銭に絡んだ資本主義的側面が見え隠れする。表現の自由が守られているからこそ、その力を行使するべき報道機関の姿勢が求められると考えています。これはあくまで私のメディアに対する一般論的な意見(主観)です。

 そんな中、水原一平氏が犯した「犯罪という事実」が明るみに出てくる中で、そこに大谷選手への「共感」が乗ってくる。確かに大谷さんの気持ちに対する共感を多くの人が持つであろうし、その結果、水原氏に対するネガティヴな感情も湧いてくるであろう(これは私の主観による共感です)。一方で、薬物依存症で逮捕歴のある高知東生氏は、依存症の怖さを知っているからこそ、水原氏に対する医学的治療を進めているし、彼の現状に対する「共感」があるのです。ここで大切なのは、私たちの水原氏に対する「感情」や大谷選手への「共感」はあくまで主観であり、一人ひとりの立場によってそれは変わるということ。番組の中では彼を「裏切り者」と志らく氏もアナウンサーも表現していましたが、「裏切り者」という言葉は彼への共感の現れであり、そこに客観性はありません。また厳密に言えば、「私たち」は決して彼に裏切られたわけではないし、その表現を用いて良いのは、大谷選手や彼の家族だけなのではないかと思うのです。

 以前私は「客観的事実の大切さ」に関するコラムを書きました。共感は相手の気持ちに寄り添う大切な感情です。人間は客観的事実の中だけで生きれるほど完璧な存在では決してありません。自分が辛い状況に陥った時、誰かからの共感は、自分の心を支えてくれるものになる。私も様々な経験を通じて、より多くの感情に共感できるような人間になりたい。だけど、共感は時として自分の中にある負の感情の吐口になったり、仮想敵を作り出すことになりかねない。

 多くの人の共感のエネルギーは、時に事実の大切さを飲みこんでしまい、本当に見るべきものを覆い隠してしまうからこそ、メディアやそれに関わる人たちは、共感や、そこからでた鋭利な言葉を使うことの危険性を認識することが大切なのだと思うのです。

 
 最後に女優として活躍している芦田愛菜さんが「信じるとは何か?」という問いについての彼女の答えを紹介して本日のコラムを終えたいと思います。

 「その人のことを信じようと思います」って結構使うと思うんですけど、それってどういう意味か考えた時に、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっていることなのかなと感じます。
 だからこそ人は「裏切られた」とか「期待していたのに」とか言うけれど、それはその人が裏切ったわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけ。その見えなかった部分が見えた時に、「それもその人なんだ」と受け止められる揺るがない自分がいるというのが【信じること】なのかなって思います。
 でも、揺るがない自分の軸を持つのってすごく難しいじゃないですか。だからこそ人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかと思いました。

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