見出し画像

#442 東大コンプレックスという言葉から考える学歴の権威化と多様な尺度

 多様性という言葉は、今社会のキーワードになりつつある。その言葉の響きは、見えない鳥籠からの「解放のドラム」なのかもしれません。

 学歴社会という言葉があります。入学した大学の名前や偏差値によって、将来が大きく左右される。そんな社会の構図の中で、多くの人は必死に戦っているのだと思います。私も「学歴社会」を憎みながら、その中で生き残るために多少なりとももがきながら生きていました。その中で生み出された様々な偏見や差別は、今の私の活動において本質的に向き合うべき「怒り」に直結しているような気がします。

 ここで間違ってはいけないのは、何かを学ぶことは非常に大事であるし、その学びを頑張って進めた人たちの結果が何かしらの評価に繋がることが悪いわけではないことです。問題なのは、その学びが「学歴」という安易な尺度に転化されてしまうことと、その尺度の持つ社会的な力が強すぎる(つまり寡占状態)こと。
 
 多様性とは、つまり、物事を判断し受けれいる尺度が広いとことであり、その社会がより「賢い」状態であるということ。つまり、学歴がという社会における強大な権威化に屈さず、多様な価値基準を生み出すこと。

 成田悠輔や養老孟司らが語る「東大コンプレックス」とは 根底にあるのは“絶妙な難易度”という記事を見つけました。

 社会の過剰な東大信仰に疑問を持った大宮エリー氏が東大卒の著名人と対談。その中で養老孟司氏はこんなことを語っています。

 「僕は、『ともあろうものが』がつくところには行くなって思っているんです。『東大生ともあろうものが』とかね」と言う。「世間が勝手に作っているイメージに合わせなければいけない理由はどこにもない」ときっぱり。「物差しそのものを吟味するのが大事な作業」と話した。

 物差しそのものを吟味する。もし吟味して、どの物差しも自分で納得できなかったらどうしましょう。そう、作るしかないのです。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?