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たまの息抜きの質素な贅沢 これより修羅に入る

 私は少し、日々に疲れていた。来る日も来る日も改善されない近況と、前のような仕事がまたできるかどうかの不安に挟まれて精神的な余裕がなかった。ついでに言えば、金銭的な余裕もだ。

 そんな私のもとに残ったのは、牛丼屋のクーポン券と少ない小銭だけである。些細なクーポンと些細な小銭でできることは、飯を食うことだけである。

 嘆いていても仕方がないので、とりあえず店へと足を運んだ。人が少ない時間帯を狙い、しっかりと座席は空けて座る。

「いらっしゃいませ〜、ご注文お決まりでしたらお呼びください〜」

 その優しそうなおばちゃん店員の声を聞いて、私は少し心が高鳴る。さながら、久しぶりに戦地へと降りてきた老兵のような気分である。
 しばらく来ていなかったこの店では、確か定食を夜に食べるとライスのおかわりが無料だったはずだ。

「じゃあ、このW定食とチーズを」

 そう伝えながら、私は出された水を一気に飲む。この暑い時期に、冷たい水の相性はとんでもなくいい。
 しばらく、ぼんやりとしながら、これが来るであろう肉の味を想像する。口に広がるあの旨味を一刻も早く楽しみたいと、心がはやる。

「すいませーん!」

 と、テーブル席の方から声が聞こえる。その声を聞いたおばちゃん店員はそちらへと足早に向かう。キッチンの中を見ると、そこにひとはいない。どうやらこの時間帯は一人で回しているようだ。
 となれば、調理を急かすのは全くもってナンセンスだ。

「これとこれを。あと、生卵を」
「はい、かしこまりました〜」

 私はその言葉を聞いて、思わず心の中でしまったと呟いていた。大抵の人間はここで、チーズを頼むはずはない。生卵や長ネギを頼むはずだ。
 しかし、頼んだものを変えるわけにはいかない。チーズだって負けてはいないはずなのだ。武士に二言はないのだ。

「お待たせしました〜、こちらW定食です〜」

 私はその肉を見て、早速箸に手を伸ばそうとする。だが、おばちゃん店員がそれを見て笑うのを見てしまったので、ここは焦らず一度手を置く。

 おばちゃん店員がキッチンへ入るのを見て、私はすぐに箸へと手を伸ばし、そのまま肉を口へ頬張り、米をかきこむ。

 ああ、うまい。このカルビ肉の味付けといい、牛皿の安心感といい。まさしくこの安定した形の定食である。

 忘れてはいけない、味噌汁。定食ならば、最初に食べるべきは味噌汁であったと、己の行動を内省し、そのまま啜る。

 うむ、安定の味である。しっかりと味も出ていて満足である。

 さて、選択を間違えたと自己反省したチーズだ。こいつを、半分ずつ肉にかける。そして、まるで肉をサンチュのようにしてチーズを包んで口に放り込む。

 よし、間違ってなかった。これでいいのだ。チーズが肉を助長する様に働き、米が進むのだ。

 そして、肉を役半分残した状態で米がつき、私はそのまま先ほどのおばちゃん店員を呼ぶ。

「すみません、おかわりください」
「はいただいま〜」

 そう言ったおばちゃん店員はそのままライスが入っていた器を持っていく。私はその間に、味噌汁をまた啜り、次の米が来るまでのインターバルを取る。

「お待たせしました〜、おかわりです〜」

 私はそれが置かれた瞬間、肉へと手を伸ばしてそのまま口へ入れる。口の中にカルビのタレの味が広がり、米がまた進む。

 食べる、食べる。とにかく食べる。貪り食う。手を止めずに口を動かす。

 とうとう肉があと二切れずつになってしまった。さあ、ラストスパートだと肉は手を伸ばそうとしたとき、私は米がないことに気がついた。

 これはどうするべきか。丸々おかわりするとなれば、肉の枚数と米の容量が釣り合わないだろう。
 となれば、私はここでどうするべきか。決まっている。

「すみません、おかわりお願いします」
「はい、ただいま〜」

 おばちゃん店員にそう告げた瞬間、私は覚悟を決めたのだ。

「はい、大盛りおかわりです〜」

 私はそれを聞いて、サイズ指定をしなかったことを後悔した。先程まで、全て大盛りでおかわりをしていたことが、まさか裏目になるとは思ってもいなかったのだ。

 ……だとして、残すわけにはいかない

 私は、修羅へ入ることにした。カルビ肉を一気に二つ放り込み、その口の中に追い討ちをかけるかのように米を叩き込む。二切れに対して、米が口を蹂躙して、肉をかき消していく。それらをそのまま胃の中へと送り込んだあと、私は残った牛皿の肉を全て口に運び、米を後詰として送り込んだ。

 そこまでして、ようやく米は1/3へと減った。しかし、肉はすでにない。味噌汁も残りわずかであり、攻撃手段がない。
 ここで終わりなのか。私はそう心の中で呟いた。

 だが、私の中に唯一の選択肢が残されていた。
 それは、カルビのタレの中に沈むチーズであった。

 そいつらを米へとかけ、残ったものを全て口の中へとかきこむ。身体はすでに、米を受け付けたくないようだったが、心がそれを拒んだ。

「……ごちそうさまでした」

 私は両手を合わせて、そのままレジの方へと向かう。慌ただしく動くおばちゃん店員のことを急かすこともなく、じっと待つ。満足感がとても大きい。これだけ食えば、当分は精神的に余裕が保てるだろう。
 おばちゃん店員がこちらはきて、笑顔でレジ打ちをしてくれる。

「お腹いっぱいになりました?」
「ええ、ありがとうございます」

 そんな他愛もない会話をしながら、金銭を払い、そのまま店を後にした。飯を満腹まで食べた後の自転車は少し辛いが、少しくらい身体を動かさなければまずいだろう。

「……クーポン券使い忘れたな」

 それに気がついたのは、自転車を漕いだわずか5分後であった。

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