雑記 #幼稚なセンチメンタリズム
『風よ あらしよ 劇場版』を観た。
原作未読、ドラマは気になっていたもののBS放送だったので断念し、私は、主人公の伊藤野枝さんや、大杉栄さんの人生をこの劇場版で初めて知った。
衝撃的な最期で、ショックだった。(甘粕事件)
女性解放運動について学校で習ったのって、平塚らひてう(この映画にも登場する)や与謝野晶子のことくらいだった気がする。こんなにも酷い(むごい)出来事があったなんて。今まで知らずに生きてきたことが恥ずかしくなるくらいだった。
映画を観終わってからも何度も頭を巡る台詞がある。
これは野枝が辻に失望して放った言葉。
私は、その時の気持ちとか見聞きしたものを好きな歌詞とリンクさせる癖がある。この台詞が放たれた時の私の頭にRADWIMPSの『愛し(かなし)』が流れ出した。
「人が人のために流す涙 それこそが愛の存在の証だ」
この歌詞が直ぐに浮かんで、野枝が言いたかったのってこういう事なんじゃないか、愛って別に恋愛だけじゃないし、野枝は辻に人としての愛が無いってことに失望したんだろう、と思った。
野枝の言葉を聞いて、優しさってなんだろうみたいな事も考えたけれど、この曲でも優しさとは、ってことが歌われているし"愛って?それは自分のため?誰のため?優しさって?"と、なんだか通ずるものがあるなぁ、と私は思った。(摘んでみたものの、結局咀嚼しきれてない感じはするけど、深い意味はないからこれでいいや)
そしてもうひとつ。
私がこの映画で1番忘れられない"幼稚なセンチメンタリズ"というワード。
これは、足尾銅山公害の問題に胸を痛め熱くなる野枝に対して辻が放った言葉。
この台詞を聞いた瞬間、グサっときた。とても自分が言われているようだったから。
私は、テレビ番組、ドラマ、映画、本、なんでも勝手に同情して、ボロボロと泣いてしまう。日常茶飯事。
家族の前では恥ずかしいから必死に堪えていたけど、一人暮らしするようになってからより激しくなったように思う...
悲しみだけじゃなくて、怒りや憤りとかもそう。勝手に強く感情移入をしてしまう。
側から見たらなにをそんなに、って思われるのだろうか、本人の方が辛いのに、関係のない私が泣いていいのか、怒っていいのか、とそんな自分に対して不安や罪悪感を抱くこともある。
だから、私のあらゆる場面でのこういった同情も"幼稚なセンチメンタリズム"なのではないか、とグサっと刺さったのである。
ただ、その不安のまま終わらなかった。
辻が罵る一方で、そんな野枝に対し「幼稚でも、なにものをも焼き尽くし溶かし尽くす、センチメンタリズム」と、その幼稚なセンチメンタリズムこそ必要だと讃えて、「僕は僕の幼稚なセンチメンタリズムを取り戻したいんだ」と言い、野枝の同志として一緒に闘い続けた。
あぁ、この大杉栄の言葉を思い出しただけで、私はふわっとまた涙腺が緩む。
野枝だけでなく、私にとっても心強い言葉だった。
感じたくないことも感じなきゃって宇多田ヒカルも言ってんのよ...何度も、宇多田ヒカルのその言葉にも救われてきたのよ...(多分、過去の記事でも書いた)
感じることは悪いことじゃないって言い聞かせないと保てないような時が今まで何度もあったし、これからもきっと数え切れないほどある。
だけど、お守りのような言葉がまたひとつ増えたから私はもっと強くなった、そんな気がしてくる。
映画を通して、今こうして私が生きている時代があるのは、100年も前に、批判を受けながら強い意志で声を上げ続け、闘い続けた人がいるからってことは忘れてはいけないと強く思うと同時に、100年経ってまだこんな世の中なのか、と今の社会に酷く絶望もした。
おい、そこの政治家、そこのジジイ聞いてるか!!と言いたくなる。言いたくなるが、人任せなんかじゃなく、声を上げ行動し続けた野枝の生き様を見て、私たち一人一人が野枝のように強い意志と行動力を持って生きなければ、と思い知らされた。私は強い女が好きだ。
(やっぱり、そこの政治家、そこのジジイ、この映画を見ろ!)
あと、言わずにはいられない。
野枝役の吉高由里子、辻役の吾郎ちゃん、大杉役の瑛太、本っっ当にみんな凄かった。良かった。
吉高由里子がXで、もう一回しろと言われても無理、そのくらい心身ともに注ぎ込んでヘロヘロの状態だったと言っていたけど、映画を見てそりゃそうだと納得したし、役者さんって本当に凄いと改めて感じた。
光る君へで、サイコパス道兼を演じている玉置玲央さんは、風よあらしよでは優しい兄ちゃんでホッとした。
役者陣も素晴らしかった、ということで、私はオンデマンドでドラマもみる。(全3話らしい。あっという間だな)
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