路上パフォーマンスに立ち止まれる心のゆとりを持ちたい.

弾き語りであったり、ストリートピアノであったり、大道芸であったり、大衆の面前でパフォーマンスを行う方を近年よく見かける。

昨今のコロナ禍の影響により一時より見かける頻度は幾分か少なくなったが、それでも時折駅前でパフォーマンスを披露している人を見かけ、まばらに人を集めては行き過ぎる歩行者の目線を一瞥程度引いている。

私はいつも歩行者側だ。何か急ぎの用事があるわけでも無いのにどうしても路上のパフォーマンスに立ち止まることが出来ないのである。加えてパフォーマンス自体に興味が無い訳でもない。お~凄いなと関心の意を示しつつも何故か立ち止まることが出来ないのである。

以前最寄りの駅に、ストリートピアノと言われる一般人でも誰でも自由に弾くことが出来るピアノが設置されたことがある。私が偶々駅に行ったときに、素人目にも分かる程上手な方がそのピアノを弾いていた。

凄く上手だった。たった数十秒の間に感動すら覚えた。しかし私はやはりその圧倒的なパフォーマンスに対峙してもなお立ち止まらなかった。いや立ち止まれなかった。

私には恐らく、心のゆとりがないのだと思う。

常に何か考え事を心の中に抱えていて、その考え事が特に用事のない日の私の頭の中をいっぱいにして、「私に立ち止まっている暇はあるのか」という焦燥感を生み出すのだ。

例えば就活。面接やESの提出がない日でも、頭の中には常に「就活」という文字が駆け巡っていて、何かアクションを起こさなければならない気がしてしまうのだ。

思い返せば常にそうだった。心が完全に安堵している瞬間が極めて少ない。勉学だったり、恋愛だったり、人間関係だったり、自分の中には常に何かしらの蟠りがある。脳の容量を圧迫されている感覚を常に抱いているのだ。

路上パフォーマンスに足を止める事が出来るというのは、時間的な猶予は勿論のこと、やはり心のゆとりに依るところが大きいと思う。自分の限られた時間をそのようなパフォーマンスを見たり聴いたりすることに充てられる人は、それだけ日常の充足感を得ていたり日々のタスク管理が上手な証拠であり、私に言わせれば「生きるのが上手い」人間なのである。

私は生きるのが下手な人間だ。コンビニでアイスを選ぶだけで10分くらいかかるし、作業の同時並行(マルチタスク)が出来ない。だから上述したような人の倍くらいは時間をかけて物事を遂行している。

自分が路上パフォーマンスに立ち止まれるようになるのはいつになるのだろうか。歳を重ねて60も過ぎれば働く必要も無くなり、子供も自立するので時間的な猶予は圧倒的に増えるだろう。

だが、どうせ私はその歳には死に対する不安や考えを巡らすだろう。そして焦燥感にかられまた歩みを止めることが出来ないのだと思う。

私は立ち止まれるような人間になりたかった。何もかも忘れてたった数分の人が織り成す御業のために時間を費やせる人間でありたかった。

来世は路上パフォーマンスに立ち止まれるような人間でありたい。そしてもう少し生きるのが上手な人間でありたい。コンビニのアイスを1分で選べるようになりたい。いや2分でもいい。

つい先日海岸沿いにサイクリングに行ったところ、若い男の子が2人いて、片方がギターを弾き片方がそれに合わせて歌っていた。青春を感じた。

それを見て私はふと、立ち止まることが出来ないのであれば、立ち止まらせる立場に回ればいいのではないかと考えた。心のゆとりという本質的な問題とは乖離するが、立ち止まらせる立場に回れば否応なく自分自身が立ち止まらざるを得なくなると思った。

ただ、やはりそれでは自分自身が落ち着かない。私のような人間はパフォーマンスをしながら常に考え事をしているだろう。そしてそのような物事に気を取られて恐らくパフォーマンスをしくじる。

ではどうしたら立ち止まれるのだろうか。

もしかしたら路上パフォーマンスに立ち止まっている人は、時間的にも精神的にもゆとりがある人ばかりではないのかもしれない。日常の焦燥感から逸脱した非日常的な時間をその数分に感じているのかもしれない。要は現実逃避として止まっている人の可能性を考えた。

人それぞれみな抱えている悩みや問題が大なり小なりあって、それでもなお強く生きている。逃げ出したくなるような現実と向き合い、ギリギリの人生を歩んでいる人も少なくはないと思う。

私は今後も路上パフォーマンスに立ち止まることはないだろう。一瞥して過ぎ去ってしまう事を繰り返すだろう。それでも、もうちょっとだけゆとりを持ってみようと思う。たった数十秒、非日常的な時間を少しでも長く体感してみようと思う。

路上パフォーマンスに「ちょっと」立ち止まれる心のゆとりを、私は手に入れたい。










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