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「聴く」をめぐる冒険⑤~介護と障害~

はじめての介護体験


新天地で、研修の仕事を10回ほど終えた時に緊急事態宣言が起こり、研修の仕事はほぼ全てキャンセルになった。

チームで話し合った末、希望する人たちは介護の仕事を手伝うという選択をした。

エボラ流行時にアフリカ(の安全な地域)に旅行した時、死への恐怖を少し感じた。

コロナで、人手が足りないグループホームを手伝う決断をした時の恐怖は、それよりだいぶ強い。自分が死ぬ恐怖ではなく、自分が感染して高齢者にうつすことでの社会的な死や罪の意識を背負うかもしれないという恐怖。

それでも、僕はこのチャンスに挑戦したかった。やがてくるであろう両親の介護も含めて、僕がもっとも障壁と感じていたのは、排泄や入浴などの身体介助だ。これを体験したいと以前から思っていた。

ボランティアで何度か介護施設で働いたことがあるが、ほとんどの施設形態では、資格保持者か、資格取得を前提とした訓練を積まないと身体介助はできない。

僕がお手伝いした認知症高齢者グループホームは地域密着型の形態で、 "ユニット"と呼ばれる単位に分かれ、最大9名の認知症のある高齢者を日勤はだいたい3名、夜勤は1名のスタッフでケアをする。

共同生活のお手伝いをする、という施設形態の特性から身体介助に資格は必要なかった。なんなら食事もつくる。
最初、僕は要介護度の低いユニットに配属された。

以下は当時の日記。

「グループホーム1日目。99歳のおばあちゃんがウィンクしてくれて、かわいかった。介護職かっこいい!」
「グループホーム2日目。昨日は穏やかだったのに、今日は荒ぶるAさん。人間の内面の多様性を教えてくれる。全部、その人だ。」

この辺りから、最も介護度の高い方の集まっているユニットのスタッフの数が足りないということで、手を上げて移った。そこは別世界だった。

日記にも影響が表れる。

「グループホーム10日目。達者な人にスパルタ指導を受ける一日。苦手項目のオンパレードで久しぶりになきそうになる、身体介助のコツを少し掴みかける。介護、難しい。」
「グループホーム11日目。はじめての夜勤。今日はOJTで先輩職員のお手伝いだったが、17時間、ほぼ休憩なし、仮眠どころじゃない。家に帰ってきたらまるで戦場から帰ってきたような感覚に。介護職、凄い仕事だ。」

「グループホーム13日目。要介護度は老いとともに上がっていく。入居者が入れ替わらない場合、仕事はどんどん大変になっていく。その大変さが当たり前とされることにより、長年働いている人達の価値が認められず、傷つく。だから新しく入ってきた人に、それが出来て当たり前として接する。善意とともに」

「グループホーム15日目。ここで働いてからの認識の変化
・介護の仕事はみてると簡単そうにみえるけど、やってみると、とても難しい・お年寄りの排泄、入浴、食事介助などをするたびに距離が近づいていく気がする。彼らに対する親近感もましてくる」

「グループホーム16日目。仕事で、まだ出来ない部分と、苦手な部分を伝えたら、周囲の人達が考慮してくれたし、気持ちも少し楽になった。一報、20年ぶりくらいに『出来ない人』体験をして、エネルギー消耗する自分もいる。お年寄り達の、色々できなくなり、自信をなくす気持ちはこんな感じなのかな」
「グループホーム19日目。足手まといな状況が続き、心身ともに疲れ果てる。」

この辺りで、研修の仕事が少しずつ戻ってきて、介護以外の仕事も増えてきたので、要介護度の低い方の多いユニットに移る。

「グループホーム20日目。新しいユニットに異動した初日。1番ベテランの方から、『あなたは、このユニットの雰囲気に合っている。歓迎します。ゆっくり慣れていってね。』といってもらった。リーダーシップとチームワークとオンボーディングの素晴らしさをいっぺんに教わった気分。」
「グループホーム21日目。普段はメンタルヘルスの研修講師で、経験のために介護職に挑戦している同僚と話をした。その人曰く、『事前のイメージでは、介護職は利用者との接し方でメンタルを病むのでは?と思っていたが違った。メンタル疾患になる原因の多くは職員同士の人間関係だった。』 同感。」

「グループホーム21日目。介護初心者でも、役に立っている感覚をもてるユニットに移ってきてから、人の話を聴く力が戻ってきた。人に良い影響を与えるためには、自分自身が健康で元気なことが大切と改めて実感。」
「グループホーム22日目。久しぶりにコーチングして、介護の現場で働くようになってから、傾聴の感覚があがっていることに気が付いた。人の言葉や行動の奥にある思いを聴く、がコーチングと介護の共通点なのかもしれない。」

以降は職場環境は安定し、半年間に渡って介護の仕事をするが、結果的には休職、退職することになる。


コロナと挫折


コロナで初めて緊急事態宣言が出た時、満員電車が消えて何故か虚しさを感じた。「満員電車をなくす」は、日本で感じる生きづらさを解消したい僕の目標のうちの一つだった。

それがこうも呆気なく解消し、でも、本質的な生きづらさは変わっていないように見えた。この頃受けたコーチングで、僕は日本の閉塞感や生きづらさを解消するためには、自分を犠牲にして働かなければならない、という思い込みに気がついた。

事実、この頃の僕は自分の生活を犠牲にして働いていた。そこに気がついてから、僕はやりたいことがわからなくなっていった。「コーチングを広めたい」も生きづらさを解消するために自分を犠牲にして成し遂げたいことだった。役に立っていないという思いも拍車をかけた。

「今のコロナの状況だと研修事業は当分、元どおりにはならない。もう元どおりにならないかもしれない。君は、何がやりたい?」この問いに答えられなくなり、最終的に出てきた言葉は「自分の生活を大切にしたい。」だった。

身体はこれまでの無理もたたり動けなくなり、同僚に紹介してもらったクリニックでは「適応障害」と診断されて休職することになった。

その後退職し、今は新たな職場に恵まれているが、40歳を越えて直感に従って行動した挑戦は、だいぶ格好の悪い失敗体験として一幕目を閉じた。

この文章を書きたくなった理由は、今も未熟で弱い自分をゆるすことで、もっと寛容に人と繋がっていく準備をしたいのかもと思っていたが、もう少し違う言葉になりそうだ。

不恰好で、未熟で、臆病で、時に攻撃的だったりもする、わがままな自分の挑戦を許せないで劣等感をもっていると、周囲の人たちの挑戦にもフィルターがかかって直視できない。話を聞くときにジャッジが入り、対等な関係でいられない。その感覚は今も少し残っている。

フィルターを外して、そんな魅力的な挑戦をする人たちとも対等に繋がっていきたい。仲良くなりたい。協力したい。

認知症のある人のケアを半年してお別れの日、毎日一緒にいた人に「あら、あなた若いわね。今日から?」と言われて、その時はがっかりしたけど、その後の「ここの人は、私たちみたいな人にも対等に接してくれるから本当に有り難い。安心しなさい。」の言葉は自分に向けられたものだと最近になってようやく受け取れるようになった。

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