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「独立しちゃいなよ」「無理だって」

土曜の渋谷駅前、23時。スクランブル交差点の赤になったばかりの信号で友人を降ろし、足軽に去ってゆく姿を見送った。交差点をスタバの方へ左折して、車を走らせ始めると、すぐに着信が入ったので先ほどの友人が忘れ物でもしたのかな?と思い車内のオーディオで電話を取ると学生時代の友人だった。

「久しぶり、どうかした?」と電話越しに尋ねると、「相談がある」と言いながら、寒い夜更けに、僕がいる渋谷よりももっともっと静かな街のどこかで彼が職場の戸締りをしている音が聞こえてきた。

彼は30代。僕と同級生の体格の良い男性で、毎年律儀に送ってくれる年賀はがきによると彼は現在地方で年下の奥さんと三人の元気な子供達と暮らしている。仕事は彼の学生時代から最も得意としてきたカメラ撮影からスタートし、今では映像制作会社のディレクターを務めているそうだ。誰もが知る大手テレビ局での駆け出しの頃の経験が今の彼の仕事人としての確固たる基盤となっていることは間違いない。

事務所が施錠されたことを知らせるセキュリティー会社の自動音声が電話越しにこちらにも聞こえてきたが、いささか仕事上がりにしては遅いのではないか。そう言うと彼はこれが日常茶飯事だと言う。そしてそれこそが今回の相談だというわけだ。

この友人の悩みを手短に説明すると、社内に編集の技術を持つスタッフが足りないため、ディレクターがその編集作業まで行わなくてはならないのだが、このような場合特にこれと言って残業手当や作業代が給与に加えられるというわけではなく、こういったことは暗黙の了解でサービス残業になってしまい、朝は暗いうちに出かけ、帰宅時間はほとんど毎晩この有様だと言う。そのせいで奥さんは三人の元気な子供達の育児に明け暮れ、どうにか改善されないものかと困り果てていると言うのである。

自分の得意とするものを仕事にしていて、その仕事は慢性的な人手不足に見舞われている。しかしながら自分が正社員というポジションにいるものだからなんとか自分の生活の方の時間を削ってでも手伝わなくては、というのが真面目で誠実な人間の持つ責任感であり、優しさだろう。特に僕の知る限り彼はそういった全てが顔に書いてあるような男である。しかし同時にふと考える。彼のこの日々は、来週改善されるのだろうか?年が明けると良くなるのだろうか?奥さんは何時頃から夫が早く帰ってきてくれないだろうかと毎晩待っているのだろう?

このような状況はあらゆる職種で見受けられる我々の社会が抱え続けているある種の問題であるようだが、彼の場合改善策として、務めていた会社から独立する、というのも一つの案として考えられる。務めていた会社から独立し、自分が外注先になり、以前の勤め先から仕事を受注するのである。案件の相場というか、規模 対 平均的な依頼金額を認識している必要があるが、横のつながりは誰しもあるのだから競争相手ではない同業者の人間に相談に行くと教えてもらえるだろう。自社の売り上げを知っていれば12ヶ月に割り、プロジェクトの件数に割ると、大体は予想もつく。それをどれだけの日数および人工(マンパワー)でこなしたか、正社員とアルバイトの人数で割ると人経費がおおよそ出るため各案件の粗利(利益として残るお金)の検討もつく。

これを元に受注先に3割ほどの利益が出るように考えて見積もりを出すと大体自分が社員として働いていた時の給料を(時に大きく)上回る。個人事業主となることは大変ではないし、自宅の家賃の一部を始めさまざまな支出が経費で落とせる上、今年のコロナのような事態には政府は各個人事業主および法人事業主に給付金を給付した。今回そういったセーフティーネットが用意されたことは個人で仕事をする人たち、特に必ずしも店舗を持たずに仕事のできる職種の人間には大きな救いとなったはずだ。

この記事が他の誰かの役に立つかはわからない。しかし長く自分が働き続けることができる働き方を自分自身で考え、探し出し、実行すること、また自分が心と時間を捧げる仕事を、誰かのためになるということだけでなく、正当な金銭的な価値にしっかりと換えられているかというところまで、悩んだときは関心を持って欲しいと思う。そしてどのように発展させていけば自分の能力はもっと多くの人たちの力になることができるだろうということを考えていけば独立するという選択肢はきっと後から「選んで良かった」と思えるはずだと僕は思っている。

しかし実際のところ彼はそんなことは出来ない、もうしばらく悩むことにするよと言って電話を切った。まぁ、今はとんでもない、と思われたかもしれない。けれど、そういうこともあるのかなと彼が少しの間でも一案として考えてみたことは、また考え直すきっかけになるかもしれない。

久しぶりに話した友人と、そんな話を週末の東京の夜道を運転しながらしたわけで、ここにひとつ書き留めておこうと思った。

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