アナイス・ニンのこと(少女論3)
周囲の讃嘆の眼差しを我物にしてきたモイラのような美少女を現実に知っている。奇しくも森茉莉とおなじ年に生を享けたアナイス・ニンだ。
ニンは、悪夢のような美しさをもちながらも長いあいだ自分の醜さに苦しんでいた。はじめて人から容姿を褒められたときには「ばかみたい、ちゃんちゃらおかしい」と日記にうち明けている。
物語でなく現実を生きるニンの抱えていた容貌コンプレックスの理由ははっきりしていて、音楽家で審美家の父が幼い娘の病み上がりの顔を見てこぼした「なんてみっともないんだ」という台詞が原因なのだという。
父に見直してもらうため、父にふさわしい美しい存在になるため、この混血の美少女は己を磨きあげた。そうして成熟した女性の美しさを全身に漂わせたニンの美貌は幽霊的。ほろほろとビスケットのようにくだけてしまいそうなほど、儚い。ニンの美しさは見る者に悲哀感を抱かせる。
父親が家族を捨てて家を去ると、ニンは日記を綴りはじめた。孤独な日々を支えてくれた日記はやがて少女の無二の友人として共に年を重ね、いつしか途方もない分量にふくれあがっていく。
恋人のヘンリー・ミラーが、ルソーやアウグスティヌス、プルーストにも劣らぬと称賛した日記には、十一歳のある日から晩年に至るまでの、その時々の思いが綴られている。ニンはいくつになっても日記を手放さなかったし、手放せなかった。
矢川澄子の言葉をそのままかりるなら、日記には「少女の純情と、しだいに目ざめてゆく自信と、日記そのものへの沈溺」に満ちている。『アナイス・ニンの日記』が今日まで文学作品として読み継がれてきた理由がここにある。
青ざめた少女のニンと作家として(女として)成熟したきわめて精神性の高い、ふたりのニン。どれほど妖艶な顔をしていても、私のなかのニンはいつまでも少女のまま、成長するということがない。
思うに、 少女という存在は生身をもたないのだ。
アナトール・フランスのマリも、不思議の国へ迷い込んだアリスも、少女時代のニンも。少女たちの輪郭には埃がかぶっている。古くて懐かしい少女たち。
すごく真剣な表情をして、じっと自分の内面を凝視している。挑戦的な目つきで。それが悲しみと、それから愛おしさを運んでくる。
(つづく)
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