馬場紀衣(文筆家)
偏愛するテーマを取りあげながら、おもむくままに綴ったエッセイ。
読書ノート。これまでに読んだ本についての覚書。
過去に書いた記事を集めています。 テーマ別に分けてあります。お好きなジャンルをお楽しみください。 参考文献を載せている記事もあります。より詳しく学びたい方は、ご参照ください。 連載中ウェブメディア 「身体」をテーマに小説、ノンフィクションの書籍を紹介しています。 本好きな人たちと繋がる。本の楽しさに気づいてもらえるサイトです。 自分をさまよい、世界を彷徨う、コアジャーニーマガジン『Tabistory.jp』(旅と思索社) 文筆家 ・研究者・編集者の3人が日々、木の
アリストテレスによれば、「手はなんでもとったり、つかんだりすることができるから、なんにでもなることができる」(『動物部分論』)のだそうだ。 これには指が分散している、ということもおそらく重要で、つまり手は、他の動物でいうところの「爪」にも「蹄」にもなるわけで、それ自体でノコギリやハサミや剣にだってなる。さすがに手で釘を打つような真似はしないけど、布団くらいなら叩くこともある。だから手が言葉になったって、おかしくもなんともない。 口はよく働くけれど、個人的には、手のほうがお
5/1‐5/4のあいだ開催されていた【DABO】re:rizmを訪ねてきた。 まるで時間を素手で撫でていくよう。 古い物と現代の作品が設えてあり、過去と未来がぎしぎしと軋んだ音をたてている。それでいて、とても静かなのだから不思議。 この場所だけ時間が停滞している。 地上から姿を消した時間が、どこをどんなふうに流れていくのか、ずっと気になっていたのだけれど「ああ、ここに集まっていたのね」と妙に納得してしまった。 もともと触覚の悦びをあちこちで語ってきたけれど、ここにいるあ
何年か前、書店でなにげなく開いた雑誌で、カルステン・ソーマ―レン(Karsten Thormaehlen)という耳慣れない写真家の撮影した手の写真が、私の目を捉えた。 手。といっても、より綿密にいえば指先から手首にかけて。さらに細かくいうと、それは右手なのだった。 手は、モノクロームの背景に沈んでいくようにも、浮かんでいるようにも、融けていくようにもみえた。 写っているのは明らかに人間の手なのに、粗い質感にしても、ひっそりとした気配にしても、この手にはとても植物的な気配が
ここのところ手や足のことばかり考えている。 なので、手足形の話でもしようかな。 福井県若狭町の三方石観世音のお堂には、江戸時代後期から現在までの約二百年にかけて総数6万点もの「手足形」が奉納されている、らしい。らしい、というのは実際に見たことがないから。それでも数年前に、都内の美術大学でその一部を見たことがある。 祈願者は本堂の御宝前にお供えされている手形足形のうち病んでいるのと同じ方を借り受けて、「南無大慈大悲石観世音菩薩(なむだいずだいひいしかんぜおんぼさつ)」と唱え
著/ローマン・マーズ、カート・コールステッド 訳/小坂恵理『街角さりげないもの事典 隠れたデザインの世界を探索する』、光文社、2023年 世界は驚きに満ちている。それは街角だって例外じゃない。わざわざ電車や飛行機を乗りついで大きな荷物を苦労してひきずらなくても、たとえば洗剤を買いに行く道のりにだって、薬局へ向かうひと時にだって驚きは転がっている。もし歩き慣れた通りに閃きを見いだせたなら。 これは、つまるところ、そういう本だ。 身のまわりにある、あることには気づいているけれ
糸が好きで、たくさんもっている。 手先が不器用なせいか、それともミシンとの相性が悪いのか、私自身はなにかを縫うということはしないのだけれど、糸や布やボタンを見に手芸店へよく出かける。きれいな色、蜘蛛の糸みたい、葉脈みたい、と集めていたら、使い道のない糸だけが何メートルも何十メートルも集まってしまって、鈍く光る縫い針と一緒に長いこと裁縫箱(という名のがらくた箱)のなかで転がっている。 私自身は縫いものと縁がないのに、私の周りではいつも誰かが縫ものをしていた。まず、祖母が刺繍の
「さまよえるユダヤ人」は作家たちの創作意欲をかきたてる題材のようで、彼の伝説を耳にした作り手は作品にせずにはいられないらしい。 シュレーゲーもシャミッソーもウージューヌ・シューもE・キネも、さまよえるユダヤ人を題材に作品の構想を練ったし、フランスの挿絵画家ギュスターヌ・ヴ・ドレは木版画に靴屋のアハスエールスを描いた。ボルヘスの『不死の人』にはカルタフィルスなる人物が登場するし、マチューソンの『放浪者メルモス』の基底にはさまよえるユダヤ人の存在がある。ゲーテは『詩と真実』の
カルタフィルスは実在する(と信じるには創作じみている)目撃情報をいくつか紹介しようと思う。 記録を信じるなら、シュレースヴィッヒの司教パウロ・エッツェンなる人物が1542年にハンブルクでアハスエールス(仏語ならアースヴェリス)なる人物に出合い、身の上話を聞いている。この8ページほどの小冊子がフランスで翻訳されるやいなや、私も見た、じつは自分も、と、ヨーロッパ各地で謎の男の目撃話が流れるようになった。 それから、1547年にハンブルクの教会でユダヤ人を目にしたという司教パ
カルタフィルスの話をしようと思う。 もしも老いることなく、死ぬことなく、何千年ものあいだ地上をさまよい続けているのだと語る人に出会ったとして。おそらく、たいていの人は気が狂ったと疑うか、笑い飛ばすか、呆れるだろうけれど、きっと、私なら信じてしまうと思う。 もともと呑気な性格だから、というのもあるけれど、そういう「たち」なのだからしょうがない。いつも目で見ていることと空想が入り混じっていて、現実を上手くとらえきれずにいるのだ。でも、現実なんて靴下の裏表みたいに簡単にひっくり返
マリと森茉莉とアナイス・ニン。ここに私はシルヴィア・プラスも並べたい。ドラマティックな死を遂げたアメリカの美しい現代作家、シルヴィア。 彼女たちの少女性について考えるとき、浮かび上がるのが「父の娘」という概念だ。シルヴィアのたぐいまれなる詩的霊感もまた、父親との関係を通して得られたといえるだろう。 ユング派の女流分析家レナードは、大人になった女性たちの化粧顔の下の、傷ついた自己や隠れた絶望感、孤独感の原因を娘と父親の関係と結びつけて説いている。父親への複雑で神秘的な想い
周囲の讃嘆の眼差しを我物にしてきたモイラのような美少女を現実に知っている。奇しくも森茉莉とおなじ年に生を享けたアナイス・ニンだ。 ニンは、悪夢のような美しさをもちながらも長いあいだ自分の醜さに苦しんでいた。はじめて人から容姿を褒められたときには「ばかみたい、ちゃんちゃらおかしい」と日記にうち明けている。 物語でなく現実を生きるニンの抱えていた容貌コンプレックスの理由ははっきりしていて、音楽家で審美家の父が幼い娘の病み上がりの顔を見てこぼした「なんてみっともないんだ」と
アナトール・フランスの『マリ』ついでに、もう一人のマリについても書く。 文豪・森鷗外に砂糖菓子のように甘やかに育てられ、薔薇と菫の花びらを砂糖でからめた菓子を愛していた、森茉莉について。まったくべつの二人の少女なのに、私の中で二人のマリはいつもぴったりと重なりあってしまう。 還暦を過ぎた森茉莉が十年もの月日をかけて書き上げた長編小説『甘い蜜の部屋』には、糖蜜のように甘やかされた森茉莉の幼少期の記憶があますことなく影をおとしている。 作者いわく「父と娘の深い愛情を描いた
アナトール・フランスの『マリ』は、1886年にパリのアシェットという本屋から出版された『我々の子供たち(Nos Enfants)』のなかの一編で、ほんの3ページ足らずの短い物語なのだけれど、じつに長閑で気持ちよさそうな雰囲気なのがいい。 少女が花と同じほどにのびのびしているところとか、そこに咲いていることを心から楽しんでいる感じとか。体の芯から嬉しそうなのが伝わってくる。 矢川澄子がおもしろいことを書いていた。 少女が少女そのものとして作品に結晶するためには、「少女自身が
とフランスの啓蒙思想家ルソーは書いている。 ここで近代思潮全体に影響を及ぼしたその教育論に触れるつもりはないけれど、もしルソーの言うとおりなら、私は正しい時期に正しい本を手にとり、きちんとお別れをいうことができたのかもしれない。ただ、彼自身は、児童文学に必ずしも好意的ではなかったようだけれど。 造物主の手から出てくるときはすべてが善でも、人間の手に渡るとすべてが堕落すると考えたルソーには共感できるところがある。私たちは生まれながらの良心が(そんなものがあるとして)いかに頼り
マルグリット・オードゥー(Marguerite Audoux)というのがその本の作者の名前だと知ったのは、ほんの数日前のことだ。 それも、見つけてやろうと意気込んで近づいたのではなくて、あるとき、いつもの古本屋で、見るともなしに店内を巡っていたときに、私のもとへ飛びこんできたのだった。いつもの、というのは、駅からの帰り道にある古本屋で、なにも荷物を持っていないときにだけ寄る場所である。荷物がないときに限定的しているのは、いつも持ちきれないほど本を買ってしまうからで、そうなる