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糸を愛でる

糸が好きで、たくさんもっている。
手先が不器用なせいか、それともミシンとの相性が悪いのか、私自身はなにかを縫うということはしないのだけれど、糸や布やボタンを見に手芸店へよく出かける。きれいな色、蜘蛛の糸みたい、葉脈みたい、と集めていたら、使い道のない糸だけが何メートルも何十メートルも集まってしまって、鈍く光る縫い針と一緒に長いこと裁縫箱(という名のがらくた箱)のなかで転がっている。

私自身は縫いものと縁がないのに、私の周りではいつも誰かが縫ものをしていた。まず、祖母が刺繍の先生だった。それから、学生時代に暮らしていた家の老婦人。二人と猫の静かな暮らしのはずなのに、子どもが駆けまわるみたいにミシンの音が家中に響いていた。そうして週末になると猫と私の名を一緒くたに呼んで、友人の家へと車を走らせるのだ。その友人というのも老婦人と同じくらいのお歳で、同じくらいお喋りで、そして、縫いものが同じくらい好きなのだった。

婦人たちはほんとうに楽しそう。顔を真っ赤にしてお喋りしていたかと思うと、次の瞬間には縫い目を追いかけて、縫い目を追いかけていたかと思うと、お喋りに戻っている。暇をもてあました私と猫はカウチでぐったり伸びながら、枯れることなく注がれる紅茶と固焼きのビスケットをせっせと口に運び、体も、部屋の中も、甘い匂いでいっぱいにして過ごした。そのあたたかさが休日のたるんだ時間帯のせいなのか、婦人たちの明るい笑い声のせいなのか、厚手のキルトのせいなのか分からないけれど、部屋は夢心地のようにあたたかくて頭の芯が痺れるほどで、菓子と紅茶と埃の匂いを吸いこんだ布地は甘い香りがした。

あれからずいぶんと経ったけれど、あの記憶のせいで、今でもなぜか糸や布に鼻をあてがうと甘い匂いがする。それはもちろん、布それ自体がもつ温度や匂いというのではなくて、記憶に染みついた匂いが現実まで運ばれているに過ぎないのだけれど。

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