「双方生きる道はないのか!」

●発達障害の処世術~その3

「森とタタラ場、双方生きる道はないのか!」と、アシタカは言った。

「発達障害と普通の人、双方生きる道はないのか!」
と、イオタカにも言わせてほしい。

前回、社会は数の論理の都合で「じゃない人向き」に作られているから、
凸凹はどうしても生きづらい的なことを書いた。

んで、今回は、どうしたら、少数派である「発達障害」も多数派である「そうでない人」も
上手いことやっていけますかねぇ?みたいなことを書きたい。

(以下、便宜上、『普通』という言葉を使うが、あまり突っ込まないでほしい)

「普通」(マジョリティー)も「普通でない方」(マイノリティー)も、
それ自体はどちらも悪くない。
(第一回で述べたように、判断基準は数であって、優劣の問題ではない。)

どちらも悪くないけど、同じコロニーに放り込むと、
「おいみんな、あいつだけなんかちゃうぞ」となって、
「え、俺やっぱおかしいんかな…」となって、
どうしても「普通じゃない方」がしんどくなる、なりがち。
では、どうすればいいか。

「普通じゃない方」の「じゃない部分」を矯正するか。
これは問題だ。矯正される方は、非常なストレスを抱え、アイデンティや自己肯定感を喪失し、破壊的な行動をとるかもしれない。
(いや、悲しいかな現に世の中でそういうことが起こってしまっている)
むしろ、それこそ、優劣意識に基づいた、優生学的な愚策だ。

じゃあ、「普通じゃない人向け」に、「少数派マイズ」されたコロニーを作るか。これもまた、大混乱を招くだろう。
結局、あっちをたてればこっちがたたずで、「普通」を「じゃない化」することも、「じゃない」を「普通化」することも出来ない。

であるなら、『双方生きる道』を「普通」は普通のまま、「じゃない」はじゃないのままで生きられる道を探るしかない。
(スヌーピー曰く、”You play with the cards you’re dealt …whatever that means.” (配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。 )

どちらか一方をどうにかしようとしてもうまくいかない。
となれば、必要なのは双方向から、第三のアプローチである。

バウム・クーヘ…、違、アウ、アウフべ、アウブへーべ…

どんなアプローチか。

私は『お互いを知る』『何がどう違うかを知る』というアプローチが有効だと思う。
なぜなら、全て衝突の原因は、
お互いのことをよく理解できていないことにあるからだ。

次回へ続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?