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3,月は知っていた

両親が離婚してすぐに母が連れてきた男は働かないのに父親面して堂々と家に居た。

突然、警察が家宅捜索に来た。
男は前科ありの指名手配犯だった。
身体に入れ墨があり、指がなかった。
母は言いなりになるよういつもドスで脅されていた。
引き出しには風呂敷で厳重に包まれたチャカが隠されていた。
男はいつの間にか押し入れの中に丸い穴を開けてそこから外へ脱出できる仕組みを作っていた。
警察が来たときはそこへ入っていって、上から布団を被せろと言って、外へ逃走していた。

男は働かないのに、母子手当と母の働いたお金で毎日ギャンブルと飲みに行き、わたしたちの食べ物は無かった。

わたしは学校の給食のパンと牛乳を母と弟たちに持ち帰っていた。

男は居場所がバレそうになったらわたしたちを道連れにしてすぐに引っ越した。

遠くへ遠くへと。誰も知り合いがいないところへと。

親戚とも誰とも縁がなくなった。

何度転校しただろう。せっかく出来た友達もいなくなった。

助けてくれた森も犬も、もういない。

わたしは小6の頃から母がいないときにその男から性的虐待を受けるようになっていた。

母は男と薬に依存して借金が膨らみ、廃人になっていった。

わたしの名義でも借金し、サラ金から風俗へ売るぞと電話口で脅されていた。

わたしが16になった頃、ついに男はわたしたちの戸籍に入り込み、すぐに母は生命保険にかけられた。

夜中に車に乗せられ遠くに連れていかれ首を絞められて殺されそうになったらしい。

わたしは母に目を覚ましてほしくて、救いたかった。

男を母から切り離そうと弁護士に相談したり、警察に訴えたり何度も何度も試みたが男女のことは当事者じゃないと解決できない難しい話だと断られ無理だった。

わたしは自分の身を守るために早く家を出る必要があって、高校卒業してすぐに家を出た。

高校の時からバイトしていたパン屋の都心部の店舗へ配属された。

勤務中、何度も店に母から電話があり、無視すると直接店まで来て、お金をせびられた。

職場の同僚に親の情けない姿を見られたくなくてそこから逃げる為に、転職した。

サラ金の取り立てから自宅も引っ越す必要があったけど、もうお金がなかった。


そのとき、タウンページで自営業の父の名を見つけ、電話して、16年ぶりに父と再会することが出来た。

父の友人が司法書士で、わたしの戸籍にあの男が載っていたのを綺麗な戸籍に戻す手続きをしてくれた。

その後、父がお金を出してくれてアパートに引っ越した。

そこから新しい勤務地に通うときも司法書士のおじさんが用心棒として送り迎えをしてくれた。

「ひろちゃん、安心しい、おっちゃんが守ってやるから」て言って見守ってくれていた。

それでも、毎日借金の取り立ての電話が鳴り、わたしは夜でも電気を付けられず、隠れたように生活をするしかなかった。

そして、何も食べず、2回も胃潰瘍になり、どんどん痩せていった。

あるとき、倒れて寝ていると、向こう側に冷蔵庫の中を漁っているもう一人のわたしが居た。
そのわたしがこっちを振り向こうとしたとき怖くなって「見るな、見るな」と必死に祈った。
窓の外に居るはずのない母と弟の声がした。

なんだか安心してわたしは力を失って倒れた。


気が付いたら病院の中で点滴を受けていた。
父が訪ねてきて倒れていたわたしを病院に連れて行ってくれたらしい。


わたしはもう、このような状態から抜け出したくていても経ってもいられなくなって母の家に行って男を力ずくで追い出すという行動に出た。

何かが乗り移ったみたいに意識はなかったが身体が勝手に動いたようで、何が起こったのかはわからないが、男はその日から家を出ていった。

後から父から聞いた話、この日の同時刻に司法書士のおじさんが亡くなっていたらしい。


その後、母に男から受けていた性的虐待のことを勇気を出して告白した。

そのほうが男への未練が断ち切れると思ったから。

母はそれから、もぬけの殻でノイローゼになった。

母は心を入れ替えたように私に向かってむりやり明るく振る舞うのが逆に苦しくて切なかった。

演技など見たくなかった。

だから、家を出て、家を借りる資金もないので寮付きの仕事をした。

それでも夢を見る権利はあると思っていたから、デザイナーになることを夢見て昼はデザイン事務所にアシスタントとして働かせてもらい、夜はパチンコ屋に住み込みで働いた。

当時はPCの仕事すらなかった時代で、ホットペッパーなどの紙媒体の広告冊子もなかった時代。

母子家庭になってから、精神面、経済面の苦労が絶えず続き、
生まれ持った自由な発想を表現することすらなくなっていき、情熱の行き場を失いかけていた。

どこかでわたしを見つけてくれる人が居るはず。

表に出たい。本当の自分を表現したい。そう切に願っていたのだ。

ついにアシスタントから制作チームに起用されることになり、美容広告の制作を依頼されるようになった。

昼夜働いて殆ど寝る間もないほど忙しかった。


母には毎月20万円の仕送りをしていた。


給料日のある日、20万円を持って母の家のドアのチャイムを押そうとしたとき、中から弟と話をしている母の声が聞こえた。

「ひろこはあの男が好きやったとよ」って。


わたしはこらえられない怒りと絶望感でマンションの屋上へ走って登り、そこから飛び降りようと思った。


そしたら目の前に見たこともないものすごく大きな月が出てきて、

「大丈夫。母は死ぬ」と言った。

その言葉に安心して、力が全部抜けた。


しばらくして朝、寮に電話が入ったと係の人が教えてくれた。

「お母さんが死んだってよ」


あの大きな月の次の満月の日だった。


首吊り自殺だった。

弟の枕元に遺言状が残されていて、「みっちゃんごめんね。ばあちゃんに50万借りとうけん返しとってね」と下の弟だけに宛てて書いてあった。

これはあきらかにわたしへ書いていると思えた。
だけど、わたしにこれまで散々苦労かけてきたから、せめて宛名を弟にして
依存してないつもりにしたかったのだろう。
見え見え。

「、、、遺言状、、、」と震える弟に「大丈夫よ、これはみっちゃんに向けて書いたんじゃないよ、姉ちゃんが返しとくから」
起きたら天井からぶら下がっている母を見せられ、ショックで深い傷を負った18の弟に、まだ恐怖の遺産を与えるとは、

どこまで他力本願なんだこの人は!!

飽きれて言葉も出ない。

なんか、もう、すべての感情を使い切った感じで涙も出てこなかった。

かけつけて2時間ほどで母は木の棒になった。

やっぱり、この人はわたしの誕生史を創るために用意されたまやかしの母親だったんだと、そのとき思った。


50万どころではない。母の財布には、わたしの名義でカードが5枚あった。即日現金化する高金利カード融資を上限まで借りられていた。
勝手に作られていた。
さらにサラ金でも借り入れてるから、大したもんだ。


そっか、わたしに返済してほしい額は50万どころじゃないから、遺言状に書けずに黙っていたんだな。
わたしは言無しの負の遺言状を突き付けられた。

死んで詫びたつもりか。

この年末の忙しいときに。

どこまで他力本願なんだ!!!


わらの犬の年、冷たい雨が降り止まない12月はじめのころだった。

そのまま年越しと正月を迎え、やる気の起きない日々が続いた。




その後、すべての人生をリセットしようと思い立って着の身着のまま夜行バスに乗って京都に行った。


京都の町はすべてが整っていて美しく見えた。

鴨川沿いの灯篭の明かりが灯る石畳の道を舞妓さんが2人歩いている。それだけで心がときめき満たされ、救われた感じがして嬉しくなった。

わたしはもともと美しいものを見ることが好きなんだ。なのに、汚い世界を見せられ、汚い世界の中でもがき苦しんでいた自分が別人だったと思える。

京都ではじめての彼も出来、友達も出来、とても楽しく、知り合いもたくさん出来た。


そうして2年後、お金を貯めて福岡に戻り、母を亡くして以来生きる意味を失ってただ毎日を呆然と生活していた弟たちに人生のリセットの為の資金を渡してまた京都へ戻った。

あるとき、知り合った大手企業の部長から「ひろちゃんに議事録を作ってほしい」と依頼され、PCをプレゼントされた。

PCが家に届くと、PCで曲作りにのめり込んだ。

当時バンドをやっていた弟に作った曲を聞かせたら「ねえちゃんこれめちゃいいよ!」と評価してくれたので調子に乗って音楽サイトに投稿した。

そして音楽大学の准教授と知り合い、上京し音楽をするようになった。


ところが、母の残した借金の支払いと、生活するためにバイトを掛け持ちし、だんだんと音楽どころじゃなくなっていた。

イベントの仕事をしていて目立っていたのか夜自宅に帰る途中、後ろから付け狙われている気配がしたので、それを追い払うために時差を作ろうと思いつき、駅の上のcaféで毎日2時間程時間つぶしの為にフランス語を独学で勉強することにした。

もう身を隠す生活から脱却したくて、すごく遠いところに逃げたかった。それで思いついたのがフランス行きだった。

2時間後降りていくと、まだ、居た。

やっぱり付け狙われていた。

何者かはわからないが、確かにわたしは狙われていた。

それで駅前のbarに朝まで入り浸り、自宅に帰らない毎日を過ごしていた。

barにはいつも仕事終わりにアメリカ人の常連が子どもを連れて夜中の2時に現れる。
お洒落でハンサムでかっこいい、街で人気者の飲食店オーナーで、
天使のように可愛い子どもはわたしに懐いてしまって
「結婚しようHiroko!心配要らない、家もあるし、店もある!」と言って猛烈なアプローチを受けていた。

わたしへの励ましのつもりだったのだろうが、わたしには家族というものがもはや重荷に感じていた。

彼は毎度ハイテンションで明るく接してくれるが、夜中の2時は眠りたい。

落ち着いた生活がしたい。
普通の寝床で眠りたい。
自分ひとりの安定した暮らしが欲しかった。

自宅に帰らないので電気もガスも水道も止められていて、家賃の負担が大きく感じたので、自宅を引き払い横浜から家賃の安い横須賀に引っ越しをすることにした。

掛け持ちと寝てないのとあって、倒れた。


気付いたら福岡の父の家に居た。

その前後が記憶喪失で、
わたしは何者なのか、何をしているのか、何をしなければいけないのか。すらもわからなくなっていた。

その後、父の仕事の手伝いをしながら徐々に意識を取り戻していった。

公園でぼんやり空を眺めていると、鳥たちが群れをなして西の方へ飛んで行った。
「あー、わたしもこの鳥と一緒に飛んでいきたい」そう思っていたら、
私は何をしていたのか思い出した。

そうだ、フランスに行こうと思ってたんだ。

フランスで暮らすために、まずフランスツアーの現地駐在員になろうと思ってたことを思い出した。

そして、ツアーコンダクターの勉強をし、仕事をした。

ワーホリ資金も作るため、夜はクラブで掛け持ちでバイトをした。


そこはわたしが来て以来大盛況で、他の女の子へのフォローも上手だったので気持ちの良いチームワークが出来上がっていた。

わたしは女の色気など無い、媚びを売ったこともないのに、何故か人気で、わたし指名で来る客が増えてきた。
100本の薔薇の花束を持ってきて求婚してくる人もいた。
毎回店にお寿司の出前が来て、店で一番高いお酒が次々と空き、次のキープも入る。
ただお洒落をして、歌い、踊り、会話して、どれも大好きなことなので毎日が楽しくて仕方がなかった。

高級外車をたくさん持っている社長は毎回日替わりの高級外車でわたしを遊びに連れて行ってくれた。
社長とママとお店上がりに朝まで外食したあと、高級外車で自宅まで送迎してくれる。
他の子たちはマスターが送迎。あきらかに待遇が違った。

いつしかわたしはチーママからチーママの座を譲り受け、
客もマスターも女の子もママからも「ひろこちゃん次ママになりー」と推されていた。

お金持ちになれるからこの道もいいかもと思っていた。
けれど30までにワーホリに行くと決めていたので、それを断った。


そしてフランスに行こうとした直前、お腹が痛くなり、子を身ごもっていることが判明し、行けなくなって、普通の会社員と結婚することになった。

                              
続く→4,多次元を行き来する



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