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映画「対峙」(原題 “Mass”)レビュー

「クリスチャンのためのオンライン試写会」に応募して、映画「対峙」 を観た。2月10日から劇場公開されるようだ。

「対峙」オフィシャルサイト

実話かフィクションかも知らないまま映画が始まった(実際は、実話にヒントを得たフィクションとのこと)。赦しがテーマということだが、対話が進むにつれ、何が起きたのか、なぜ起きたのか、そして集まった4人の心の中が次第に明らかになっていく。被害者の両親が強く出たと思うと、逆に相手から問い詰められたりして、いったいどうやって「赦す」という結末に至るのか( 至らないのか)、予断を許さない実にスリリングな展開だった。また映画作品としても、シチュエーションドラマならではの脚本の巧みさと、俳優たちの迫真の演技力が際立っていて、世界中で評価されるのももっともだと思った。

(注意:以下にはネタバレがあります)

何かが起きてしまった以上、人にできるのは、事実を解明し、何らかの手段でそれを納得し、受け入れることだろう。被害者の両親もそれを望んでそこへ来たはずだし、事件の設定上、被害者側の「いかに赦すか」に関心が置かれるのは当然だ。しかし加害者の両親も同様に傷ついているということに、観ているうちに気付かされる。そして最も印象的だったのは、被害者、加害者双方に、母親がともに、(亡くなった)息子のエピソードを語ることで、心の在り方が変化し、自分だけでなく相手のことを思いやれるようになったことだ。彼女たちは、ストーリーを語ることで息子の人生に意味付けをできたのだ(それが「ナラティブ」というものらしい)。

一方父親たちのほうは、どちらもそこまで至らないままに別れたように見える。

観終わった直後、これはキリスト教映画なのか?という疑問が湧いた。確かに舞台は教会の一室だが、彼らは決して「信仰」を意識しながら結論に至ったのではない(と思う)。「語る」ことによって母親たちは互いを理解し、ハグをした。これは、自分の思いを吐露し、それを受け入れてもらうというメンタルヘルス的なアプローチで説明できるし、この映画が人々を感動させるのはその部分だろうと思った。そこには、「赦されたクリスチャンだけが本当に相手を赦すことができる」といった、ある意味聖書的なメッセージは不要に思えたのだ。なので、壁にかかった聖句も、タイミング良く聴こえて来る聖歌隊の練習も、僕には最初余計なもの、もっと言えば、あざといものにすら思えた。

しかし、冷静になって思い返すと、伝道的なアプローチが必要なのは、二人の父親のほうではないかと思った。なぜ彼らは母親たちのようにハグできなかったのか。恐らく対話の前に、少なくとも被害者の父は、妻が感情的になって取り乱さないよう、話し合いを成功させるのだという自負と責任を感じていただろう。しかしそのために彼は、夫としての役割から自らを解放することができなかった。それは妻だったり相手だったりという、他人あっての役割だったからではないか。確かに夫としての役割は全うした。しかし自分の問題は未解決のまま。そんな彼の耳に、聖歌隊の賛美歌が聞こえてくる。ここに、キリストによって砕かれなければならない頑なな人間の姿が描かれていたのではないか。

もしかしたらこの映画は、こうした父たちと母たちの違いを描くことで、メンタル的なアプローチの限界と、福音のもたらす赦しの力との違いを言いたかったのかも知れない(読み過ぎかな?)。

「12人の怒れる男」のように、筋を知っていても繰り返し観たい映画になる気がする。