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百三十八話 特命係長

 不寝番の声がした。
 九時半に予定通り起こされる浅井。我に返って起き上がり、身支度をする。
 朝飯を食べに伺うも、食事番はまだ寝ているようだった。何の準備もされておらず、誰もいない。

 「また無食か・・・」
 浅井は小言をツイートした。戦場では、握り飯一つの差が生死を分ける。正真正銘の死活問題だ。とは言え、自分で作ることも出来ず、仕方なくそのまま聯隊本部へ向かった。

 聯隊本部は、二階建てだった。以前、國府軍が使っていたものと思われる。
 剥き出しのコンクリート。古い入口。
 小銃を手にした歩哨兵が立っている。

 兵が浅井に気付いた。
 「教育実習の場所は、向こうにある蒲鉾型の青い建物だ」
 そう言って、指差した。
 浅井は、礼を言い、おもむろに当該の建物に向かった。

 建物の中にに入ると、すでに三十名近い新兵が集まり、ざわついていた。見ると、亜米利加映画の女優であろうプロマイドが、壁とはいわず天井にまで貼られていた。
 米軍飛行場の宿舎だったのだろう。太平洋の制空権を手にした敵は、今や空母艦載機に積んだ爆弾を日本各地に投下。そのまま支那各地の米飛行場に帰投しているのではないか。
 無数のプロマイドやポスター、ピンナップ群から敵の余裕が感じられなくもない。
 一同に戦慄が走った。
 (だから大本営参謀本部は、在支の歩兵聯隊に、米軍航空基地殲滅を命じたのだ・・・)
 浅井ら新兵は、自らが遂行する作戦の意義をはじめて実感する。

 しばらくすると長靴の拍車の音が聞こえ、どんどん大きくなって来た。
 ドアが開く。若い少尉が入室した。
 
 「聯隊旗手だ!」
 後ろの方から新兵の声が聞こえた。
 いかにも士官学校出らしい少尉は、新兵を一瞥する。

 「俺はお前達の教官で只野だ!」
 若いエリート少尉が言い放った。
 一層姿勢を正す新兵たち。
 只野教官は、持ってきた名簿を読み上げる。
 そして、読了後、何故か浅井ともう一人を名指した。

 「ついて来い!」
 そう言って建物を出る。浅井は、教材でも取りに行くのを手伝うのだろうと思い、隣の新兵に小銃を預けようとした。
 その刹那、教官が振り返る。
 「銃は持って来い!」
 厳しい声だった。
 「ハイッ!」
 慌てて返事をする浅井ともう一人の新兵。二人は小銃を持って建物を出、まるで軽鴨かるがものように後をついて行った。
 
 拍車の音に続く。
 「上官とすれ違っても敬礼せんでいいから」
 しばらく進んで、只野教官が言った。
 教官の背中だけを見るようにする。浅井ら二人は、視野を限界まで狭め、本部室に入った。

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