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六十四話 釜山

 釜山は気持ちよい港町だった。
 小高い丘から、船や市街の様子が一望でき、ズタボロとなった葛西の心を幾分和らげてくれる。

 釜山に来る前、葛西は朝鮮を警戒していた。
 朝鮮は、日露戦争後の明治四十三(一九一〇)年八月二十二日、全借財を肩代わりしてもうらう形で大日本帝國に併合される。それ以前は支那の属国で、経済も日本の平安時代と同水準。にもかかわらず、有史来日本を蔑視しており、反日が国是のような国だった。
 したがって、支那の「日本に服従するのはいやだが、欧米に服従するのはいい」といった考えにならってか、「日本に併合されるくらいなら、露西亜に併合された方がいい」というスタンスだった。そのため、事実上露西亜の保護下に置かれ、ロシア軍の駐留が始まっていた。このまま放っておけば、露西亜は、悲願の不凍港を自由に手に入れ、次は日本、そして太平洋と領土拡大を図る。
 これを阻止するために、日本は自国の二十倍もの国力を持つ露西亜と戦うハメになったのだ。聞く耳を持たない朝鮮。また、支那に至っては、昭和十二(一九三七)年七月二十九日、通州(現北京市通州区)居留地の日本人約二百五十人を虐殺している。

 「支那はともかく、朝鮮は大日本帝國になって長らく経っている・・・」
 葛西は不安を払拭しようとした。ただ、海の物とも山の物ともわからぬブラジルと異なり、なまじ想像できる分、警戒心が沸いた。
 
 しかし、実際暮らし始めると、住めば都とはよく言ったもので、そう心配することはなかった。
 現地のインフラは整い、教育により言葉も日本語。殺伐とした世紀末的な感じはさらさらない。経済も内地に追いつけとばかりに活気が垣間見れる。露西亜に併合されていたらこうはいかなかっただろう。おそらく、これまで通りの欧米式の奴隷植民地政策が施行されていたに違いない。

 街に出ると、朝鮮の女学生たちが手を繋いで歩いている。内地ではあまりお目にかかれない光景に、ついほほえましくなる。
 ペアで、レコードのシングル盤サイズの食物を食べ歩きするもいた。白い、ナンかブリトーの皮のような生地。具を取ったパイのように見えるが、明らか初見の食べ物だ。
 近くの屋台で売っているのに気づく。
 葛西も指一本立てて、一つ買ってみた。

 「何という食べ物ですか?」
 言葉通じるかなと思いつつ、訊く。
 「ホットク、ホットクです」
 店主より先に、隣にいた女学生が笑顔で教えてくれた。
 
 ホットクという名の焼菓子・・・
 一口食う。
 ほのかに甘い、ニッケかハッカのような味がした。

 語学の心配もない。借金返済の心配もしばらくない。
 さらに、住み込みの沖仲仕の職を得た葛西は、生気を取り戻した。他に心配することと言えば、職場の人間関係くらいだ。
 これは、まず直属の職長がいい人そうだった。歳は四十半ばくらいで、薄い角刈りの豆タンクのような体型をしていた。名前を木村小太郎と言い、葛西を見るなり「内地から来たのか~。スシ、おいしいなぁ~」と言って明るく笑った。発音からして、朝鮮の人のようだった。
 次に、木村職長から紹介されたのが、遠藤道夫という若者。くには福島の会津で、歳は葛西の一つ下ということがわかる。
 「遠藤です。よろしく・・・」
 朴訥とした東北弁訛りで挨拶してきた。

 仕事は基本、この三人一組でする。
 職長の木村は、時々他の朝鮮人の若いに指示出したり、内地から来た上役に「仕事が雑だ」と怒られたりしていたが、葛西と遠藤はほぼほぼ一緒。二人三脚状態で、荷下ろし荷積みに精を出す。
 休日には、木村職長が、メシに連れていってくれることもあった。その時若干驚いたのは、食器や箸が鉄であること。ごちゃ混ぜになったビビンバともども少々味気ない気がしたが、「ここのはうまいぞ~」と言われて食べたカルビとキムチは、甘味があって実に美味かった。

 職長の飲み会には、地元の若いも連れられて参加することがあった。多くが日本名で、普通に日本語を話す。目の細さとかで地元の人とわかるのだが、その他あまり変わりない。彼らは、場を盛り上げるため、職長のモノマネをしたり、職長の子供時代の名が黄勇俊ファンヨンジュンで、奥さんは黄聖姫ファンソンウォン、現・木村まさよであることをバラした。

 職長の口癖は、「お前ら起業しろ」と「三年も同じ仕事を続ける奴はバカ」だった。このため、だらだら仕事を続けている奴は、無理やり独立させられる。文化の違いといえばそれまでだが、日本の石の上にも三年とかより好ましく思えた。
 葛西は遠藤に話す。
 「職長のあの口癖、いいよな」
 「いいですね。自分、肉屋で丁稚やってたとき、三年間雑巾がけやらされましたよ」
 「それ、きついな」
 「ボーナスも四・五カ月分出る言うから期待してたのに、営業の歩合=ボーナスになっていて、結局、外回りとか誰もする暇なかったからゼロ。古参社員に聞くと、今まで一カ月分も出たことない言うてましたよ」

 葛西は自身の就活時を思い出した。
 職安の求人票――給与の内訳を見ると、基本給が半分ちょいしかない。その他、職能給や住宅手当もろもろ並ぶ。
 面接の際、思い切って聞いてみると、基本給ベースで退職金やボーナスが決まるから、それを抑えるためというのがわかった。
 さらに、税金を払いたくないのだろう。面接に行ったその場で、正社員でなく個人事業主をやたら勧めてきた。最早、就職のていを成しておらず、さすがの葛西も帰宅後、職安に通報した。

 「そんな会社の勧めで個人事業主なって、請負やらされるなら、まだ独立した方がいい」
 葛西の話を聞いて、遠藤は苦笑する。
 二人は、沖仲仕の仕事が肉体的にきついこともあり、二年を待たずして、独立を企てることとなる。

 なお、職長の口癖には続きがあった。
 「支那はホームレスの地位高い」
 始め、どういうことか理解不能だったが、漆黒のブラック企業で働く社畜より、自主独立しているということだった。職長に言わせれば、支那の職業貴賤の観念では、ホームレスは中位だそうだ。
 内地の感覚では理解し難い面はあるが、なるほど言われてみれば言えてるなと二人は思う。
 「支那もなかなかやるかもな・・・」
 葛西は遠藤に呟いた。

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