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百十八話 行軍戦

 部隊は先を急いで、敵地での進軍を開始した。
 一日十粁米km進んで、敵とぶつかるとする。そうすると、戦闘で二、三日進めないことを勘案して、最低でも一日二十粁米kmは進んでおきたい。
 
 歩兵部隊は、まず将校を長とするおおよそ五人の偵察隊が、旗と三百分の一の地図を持って先頭を歩く。その後を、二、三百間隔を保って、本隊が追う。
 兵隊間の間隔は七、八で、隊列は一列縦隊。一個中隊で、裕に一粁米kmを超える超長蛇の列になる。
 いざ戦闘が始まると、列の先、前衛が戦うので、後ろは休める。一線が二百人単位で戦い、疲れると次の部隊が出て、交代しながら連隊は進んだ。

 黄河を渡河し、揚子江の漢口まで行軍する河南作戦において、何が辛かったかと言えば、歩くことだ。これも経験者は語る、寺尾兵長の言う通りだった。
 いくさはそれがために行ったので辛いとかない。しかし、ここまで歩くとは想像すらしておらず、しかも、三十粁瓦kgの背嚢を背負ってである。

 始めのうちは、行軍中『麦と兵隊』を歌ったりして、ゆとりがあった。しかし、中原と呼ばれる華北平原は、山など一切ない草原。敵・國府軍は、地の利があり、優位な場所で待ち構えている。次第に、歌う暇などなくなった。

 山が見えると、山頂から敵が迫撃砲を並べて射って来る。
 その発射音は、何処か遠くでやっている運動会の号砲くらいにしか聞こえないが、砲弾が上空にくると「ヒュルヒュルヒュル」と悲鳴のような音になる。
 山砲と違っていきなりドカンとこない。しかし、その分、滞空時間が長く、怖かった。
 対応策として伏せるには伏せるが、草原において上から降ってくるので防ぎようがないのだ。

 戦闘は、大体迫撃砲で始り、重機関銃、軽機関銃、小銃と続く。
 敵は、日本軍が苦戦しそうな場所を選んで仕掛けてくる。
 そのため、最初は激戦となり、苦戦を強いられたが、一日か二日経つと敵は日本軍のように突撃して来ることなく、毎回退却していた。抵抗の度合いは、背後にある街の大きさに比例しているようだった。

 連隊は、黄河渡河から二日目にして、河南省鄭州市を占領。休みなく前進し、郭店、新鄭市を突破する。その後、北京から漢口まで続く京漢線沿いの各都市で戦い、これを守護する國府軍を各個撃破。沿線を南下し、鄭州から約七十粁米km南下した同州許昌市に迫った。

 この間、浅井らの中隊は、出番がなかった。ひたすら行軍の連続である。
 行軍中、おおよそ五時間に一度、十分間の小休止が与えられる。しかし、中隊の後尾にいる者が、小休止地点に着くとすでに前進が始まっている。よって、浅井らが、休憩の恩恵に与ることは不可能だった。

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