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八十九話 射撃と清掃

 気が付くと、馬上から訓練を見ていた中隊長の姿がない。いつの間にか消えている。
 田村班長は、肉攻訓練を止めさせ、新兵たちを小銃射撃場に連れて行った。
 新兵の日頃の鬱憤を晴らしてやろう――そんな狙いもあったのだろう。思惑通り、新兵たちは皆、射撃訓練を面白がっている。無論、浅井もその一人。縁日の射的皆勤賞の浅井は、かつて最小の的・キン消しをて、見事特賞の自転車を当てたことがある。腕が鳴るとばかりに挑んだが、射撃と射的は大いに違った。重さと反動でブレブレとなり、浅井の放った弾は、ブスッと音を立てて地に刺さる。浅井は武者震いのせいにしたが、一人だけの失態に、他の新兵から思わず笑いが起きた。
 
 また、射的との違いはまだあった。訓練の後、小銃弾についている真鍮の薬莢を拾い集める回収作業があったのだ。一度は晴れた日頃の鬱憤がまた積るという落ち(浅井は鬱積のみだったが)――これには、他の新兵も笑えなかった。

 当時、内地では、寺が釣鐘を外して供出するほど銅が不足していた。日本は、そこまで資源不足だったため、軍隊でも発射後の薬莢を拾い集めていたのだ。

 広大な荒地に散り、様々な訓練を受けた新兵は、夕方になって帰路につく。半地下の建物に到着すると、年上の新兵たちが、一斉に田村班長に群がった。
 見ると、班長の軍服についている泥を払い落としたり、汚れたゲートルをしゃがんでほどいている。また、班内から班長の営内靴を持って来て履き替えてもらい、その上で泥だらけの軍靴を綺麗にする者もいた。
 手分けして行われる年上の新兵たちの動きは、全くもって無駄がない。
 一方、す術もなく立ち尽くし、眺めるだけの浅井。世間を知る年上の新兵には、とても敵わないと思った。

 「もう一人の新兵と厠掃除をするからついて来い!」
 班に戻ると、待ち構えていたかのように仁王立ちした加平が、怒鳴った。
 浅井ともう一人の新兵は、物置から円匙えんぴ鶴嘴つるはしを持って来て、加平について厠に向かった。

 厠掃除のメインは、大便所の汲取口に鶴嘴を突っ込み、凍った糞を砕いて外に掻き出すというものだった。
 実行するのは、浅井ともう一人の新兵。加平はやらない。傍に立って「ああだ、こうだ」と口やかましく指揮した。
 零下二十度で凍った糞は固い。まるで石ころのようだ。
 掻き出してバラバラにしても、臭いがまったくしなかった。

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