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小説『レインの匂い』試し読み

『レインの匂い』あらすじ

レインがぼくをこわしてもかまわない。願いが叶わないのであれば、おなじ――。
真冬の深夜、「ぼく」は自分の部屋の鍵を落とし、アパートの廊下にすわりこんでいた。ひと晩泊めてくれた隣人の部屋で見かけた、Rainという名のお香の匂いは、懐かしくせつない遠い雨の記憶を呼び起こそうとするが...。いとおしく、恋しく、かなしい。雨の日のまどろみにも似た恋愛文学。

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レインの匂い_表1ol

くちびるの隙間から、白い息が溢れでる。

黄色いビニール袋から、外国製のカカオ70%のビターチョコレートを出した。スーパーマーケットのロゴタイプと、歩く男の人のシルエットイラストが印刷された黄色いビニール袋。

銀紙包装の板チョコを剥く。噛むと、パキンッと気持ちのいい音がした。きちんとこういう音を鳴らしてくれる真冬の真夜中の静まり返った空気のなかで、ぼくは三角すわりで小さくまとまり、アパートの玄関前のコンクリートの廊下で夜明けを待っている。破いた銀紙のはしを折り、黄色いビニール袋へつっこむ。ビターチョコレートは舌のうえで、ゆっくり時間をかけて溶ける。

「こんばんは」

とつぜんに声をかけられて、うつむいていた顔を上げた。

隣の部屋の住人に会うのは、初めてだった。彼はごついコートとマフラーに見事に着ぶくれている。ぼくとおなじくらいの年齢の男が、静かに笑ってこちらを見ている。

ぼくはすわったまま、あいさつを返す。

「こんばんは」

「どうかしたんですか?」

彼が寒そうに肩をすくめて言う。

ぼくは立ち上がり、ほそっこくてつめたい手摺を握った。ぐっと身を乗り出して、指さす。

「そこに鍵、落としちゃって」

真下には、暗闇に沈み切って見えないけれど、植え込みの茂みがあるはずだ。

彼は手袋をはずして自分の部屋の鍵を開け、黙って引っ込んだが、しばらくしてペンライトを手に出てきて、ぼくに「どのあたり?」ときいた。

「こっち」

手摺をしっかり握りしめて、足を滑らさないよう慎重に階段を下りた。植え込みの前で彼を手招きし、茂みを指さす。

彼の持ってきたペンライトの光は弱すぎて、照らした枝を複雑なかたちの影に変えるだけで、よけい見えにくくする。彼はペンライトをやめ、ポケットからスマートフォンを出してライトを点けた。むしろこちらのほうが明るい。でも残念ながら鍵は見あたらない。

「ありがとう。もういいよ」

ぼくが言うと、熱心に茂みを覗き込んでいた彼は身を起こし、振り返った。

「朝になったら、いもうとが帰るから、それまで待つよ」

「いもうと?」彼は驚いた顔をする。「隣って誰も住んでないと思ってたのに」

「いもうとと、二人暮らしなんだ」

ミノリのことを人に言うとき、ぼくはこの単語をきっぱり発音することに決めていた。

「朝まで待つよ」

「玄関の前で?」

「うん」

「うち来ます? 散らかってるけど」

彼の親切さに、ぼくは笑って首を振った。

「ありがとう。でも悪いしいいよ」

「凍死しますよ」

彼は震えていた。外でこうやって喋っているのさえ、もう限界なのだろう。

「大丈夫、大丈夫。早く入りましょう」

「じゃあ、悪いけど、朝までお邪魔させてもらおうかな」

彼は何度も大きくうなずき、急いで建物のなかへ引き返した。

「野菜ジュースのことを思い出したんだ」彼は玄関で靴を脱ぎながら、突然そう言った。

「小学校のときさ、家に着いたら鍵がなくて、入れなくて、親も出かけてて。いまのきみみたいに三角すわりして玄関の前で待ってたんだ。向かいの家の人が、うちで上がって待ってなさいって。真夏の猛暑の日で、日射しにやられて汗がだらだら出てた。そのとき初めてその家に上がったけど、クーラーのきいた部屋に通されて、コップ一杯のつめたい野菜ジュースをくれたんだ」

隣の彼の部屋には、ぼくたちの部屋にはない、テレビや電子レンジやコミックがあった。物に溢れている。彼は手袋を脱いだ手でこたつテーブルのうえに置いていた白いリモコンを拾い、エアコンをつけた。

台所の流しにはガス給湯器がついていた。彼がスイッチを押すと、ヂヂヂヂヂと音がしたあと、給湯器のなかで小さな青い炎が同時にいくつも点るのが見えた。炎のサイズは均一で、整列していた。

勢いよく飛び出すシャワーから流し台に湯気が上がる。彼の顔を覆った。コート姿でマフラーをつけたまま、彼は手を洗い、口をゆすぐ。

ぼくもすすめられて手洗いうがいをする。出してくれたタオルは、鮮やかな赤。

「すっごい薄着。寒くないの?」

ぼくの恰好を見て彼が言う。

「寒いけど、ふつう、かな」

「おれほんと、寒いのきらいなんだ」

スーパーマーケットの黄色いビニール袋からぼくは新品のチョコレートを一枚とり出し、シンクのうえに置いた。

「これ、泊めてもらうお礼」

「チョコレート」

「さっきスーパーで買ってたんだ」

「チョコレートおれ食べないんだ、ありがとう」

彼はシンクのうえのチョコレートを持ち上げずにすっとぼくのほうへずらし、お礼は要らないという意思表示をした。

そしてバスルームの扉を開けて、蛇口を捻り、シャワーを出しっぱなしにして、水がお湯になるまでのあいだにマフラーを取ってコートや服を脱ぎ、裸になってバスルームへ入っていった。

ぼくは冷蔵庫を開けた。シンクのうえから板状のチョコレートを取り、スライスチーズとカニかまぼこの隙間にすっと差し込んで冷蔵庫のドアを閉じた。

バスルームから彼が出てくるころには、部屋は幾分かあたたまっていた。彼は爽やかに笑いかける。

「きょう、飲み会でさ。職場の送別会。けっこう酔っぱらったから、さっききみを見たとき幽霊か幻覚かと思ったよ」

少しも酔っているふうには見えない動作で彼はテレビをつけ、出しっ放しの二リットルペットボトルからミネラルウォーターをコップに注いで、こたつに足を入れる。

「シャワー浴びる?」

「出かける前に入ったから」

「あ、歯ブラシあるよ。ホテルのやつ」

そう言って流しの下を開けて、奥のほうから使い捨ての歯ブラシを出し、ぼくに手渡した。彼が出してくれた柔らかい素材のズボンに穿き替えた。毛布を二枚貸してくれた。茶色い毛布とオレンジの毛布だった。こたつをすみに追いやって、床に一枚毛布を敷き、二枚目の毛布でからだをくるんだ。壁際によせられた、コミックが並んでいるカラーボックス。そのうえに、ジャムの大きさのガラス壜が置かれているのを見つけた。ガラス壜には細い棒が十本ほど差してある。

「これは?」振り返って、ベッドで丸まっている彼にきく。「色違いのポッキーみたいのがたくさんある」

目をつぶっていた彼は振り返り、まぶたを開けると、「お香だよ。色によって匂いが違うんだ」と言った。

もう眠そうな彼はベッドから立ち上がり、カラーボックスのうえの壜のなかからターコイズブルーの一本を選んで、白いプラスチックのライターで火を点ける。お香のさきからほそく煙が上がる。

「それ何? いま点いたやつ」

彼のくちびるがその名を告げる。

「Rain」

雨音がきこえてくるかのようなその匂いは、ぼくの記憶をかき乱した。

いつかの出来事を、思い出せそうで、思い出せない。たしかに体験したことのある、もどかしい既視感。胸の痛みばかりが、リアルに想い起こされる。とほうのないせつなさは、皮膚感覚として覚えている。

「すごい。本当に、雨の匂いがするんだね」

そう言いながら振り返ると、ベッドのうえで彼はもう寝息を立てていた。


ガラス戸のサッシが結露を起こしていた。ひえたかたいガラス戸をあけ、気持ちのいいつめたい空気を部屋に入れた。

まだ暗い明ける前の空を見た。ベランダに出て、そろえられていたつめたいサンダルを履く。隣のぼくの部屋を覗こうとしたけれど、仕切りの向こうの様子は、簡単には見れないようにできていた。身を乗り出したら、ミノリがベランダで栽培しているラディッシュのポットと見慣れた部屋を少しだけ見ることができた。彼の貸してくれた柔らかい素材のズボンは、ひんやりとした空気を通した。部屋のなかへ戻り、ガラス戸を開け放したまま、カラーボックスにあったコミックを抜き出し、すわって壁にもたれて読んだ。ページを繰ってコマ割りの絵を見つめ、文字を目で追っているけれど、心は、昨夜のレインの匂いのことでいっぱいになっていた。あの感情は、何だったのか、いつ体験した、匂いだったのだろうか。カラーボックスに置かれた壜のなかのターコイズブルーのお香に手を伸ばそうとしたとき、ふいに台所で炊飯器が炊き上がりを告げる音を鳴らした。目を開けていないけれど、彼が起きたのがわかった。ぼくは台所へ行って炊飯器を開けた。ごはんの香りと湯気が上がった。蛇口からほそく水道水を垂らし、濡らしたしゃもじでごはんをよく切って、茶碗によそった。冷蔵庫から鮭フレークの壜を取り、あつあつのごはんにのせる。台所の椅子に腰かけ、ごはんを口に運んだ。

「寒いと思ったら、開いてる」

酒にしゃがれた声でそう言って、彼は寒そうに肩をすくめ、ガラス戸を閉めて、台所のぼくを見た。

「なに人んちの米かってに食ってんだよ」

寝癖のついた髪で、まだ開ききらないむくんだ目で、呆れたように彼は笑った。ぼくは拝借していた茶碗と箸をシンクで洗い、もと通りにして、さっき読んでいたコミックのつづきを読んだ。

彼もぼくと入れ違いに台所椅子へ腰かけ、ごはんを食べたあと、ぼんやりとガラス戸のほうを向いて、外の風景を眺めていた。

ぼくがページをめくったら、すぐに朝日が射して、部屋じゅう明るくなった。

そのとき、はなうたがきこえた。彼の声だった。ささやいているのによく透る声。清潔感のある、甘い声。そしてうたそのものが恐ろしくきれいな旋律だった。

少しだけで彼がやめたので、「もっとうたってよ。何のうた?」とぼくは言った。

「うた?」

「うん」

寝癖もむくみもそのままだけど、その声は、もうしゃがれていなかった。

「おれ、うたってた?」

ぼくはコミックを閉じて、巻数順に並んでいるカラーボックスへしまった。

「いいうただった」

彼は首を傾げた。

「無意識だった?」

彼はうなずく。

「おもしろい人だね」

コンクリートの廊下を踏む足音が外で止まり、隣の部屋の玄関の鍵を開ける音がした。ぼくと彼は耳をすまし、顔を見合せたまま沈黙した。ぼくは立ち上がり、借りていたズボンを穿きかえた。

「泊めてくれてありがとう。すごくたすかったよ」

彼はほほ笑んでいた。

玄関を開けて出た。廊下にミノリの姿はもうなかった。

ぼくはそのままコンクリートの階段を下り、例の植え込みを覗いた。朝の光のもとでは、あっけなく鍵を見つけだすことができた。


そのスプーンはぼくに当たらず壁に激しくぶつかり、ベッドのうえへ落ちて弾んだ。壁にもたれベッドにすわっていたぼくは、玄関を飛び出していくミノリのうしろ姿を眺めている。彼女の気配はすぐに完全になくなり、ゆっくりと、ドアは自動的に静かに閉まった。

飛び出していった彼女の心のうちを考えるより、ぼくは振り返って白い壁とシーツに指をふれ、ビーフシチューの汚れがついていないことをたしかめて胸を撫で下ろした。


ベランダの隅に置かれたプランターにはラディッシュが植えられている。ミノリのラディッシュだ。

鍋に水を満たし、ガスレンジで火にかけた。ミノリがやっているのを真似て、茶筒からルイボスティーのティーバッグを一つ出して、沸いた鍋の湯に放り込んだ。

冷蔵庫のドアを開けたら、彼の部屋で開けた冷蔵庫のドアの感触を思い出した。スライスチーズとカニかまぼこの隙間に隠した板チョコレート。

ぼくの部屋の冷蔵庫には玉子、玉葱、とうふ、米、グレープフルーツジュース、ヨーグルト、レモン、セロリ、味噌がのこっていた。流しの下を開けると、パスタや干し蕎麦や、ミノリの漬けたカリン酒もあるし、ベランダにはラディッシュだってあった。

ふいにレインのことを思い出した。ターコイズブルーの細い棒に火を点けたときにわき立った、思い出せそうで思い出せない記憶について、思いをめぐらせる。ライターから移した炎は消え、先端が赤くともる。煙の筋が天井へ上がった。その匂いは、静けさのなかで途切れずきこえつづけるあの雨音を想起させた。

ベッドに仰向けに寝そべって、ミノリの帰りを待った。眠りもせずベランダの向こうの空を見ていた。時間が経つにつれ、青空は色を濃くしていった。さっき昼を過ぎたばかりなのに、早すぎる夕方が訪れたのだ。

洗濯物を取り込んで、取り込んだそばから服を着た。靴を履いて玄関を出た。


煌々と明るいスーパーマーケットの自動扉を入ると、黄色いビニール袋を提げたサラリーマン客とすれ違う。現代風のスーツを着こなした、勤め帰りの人。黄色いビニール袋からは、黒いしょうゆのボトルとハーフサイズの大根がのぞいていた。棚には外国製の食材も豊富に取り揃えているこのスーパーマーケットを、ぼくとミノリは日ごろ利用している。感性を感じさせる調味料の品揃えや、良品質の野菜と生鮮食品。店員のさりげないサービス心や、清掃のゆきとどいた清潔感のある、広すぎない店構えをぼくたちは気に入っていた。

ビールの陳列棚で立ち止まり、珍しいラベルの缶や瓶を手に取って見比べた。充実しているアルコールのコーナー。

そのとき、自動扉が開いて、隣の部屋の彼が店に入ってくるのが見えた。彼はすぐにぼくに気づいたようだった。ぼくは、自分のペースで買い物をつづけた。ウィスキー、ブランデー、ラム、ウォッカ、ワイン。一つ一つていねいに、ラヴェルに載った説明書きや、原産国をたしかめては、棚へ戻した。レジで会計を終えた彼が、ぼくのほうへ近づいてくる。近づいてきたのに、話しかけずに足を止め、こちらを見ていた。ぼくは構わず、酒の物色をつづけた。赤いラベルのついた、透明な瓶を見つけた。原産国は、ベトナム。彼のほうを振り返り、「これどう思う?」と訊いた。

とうとつな問いに、彼は、面喰ったようだった。

「おれがいるって、いつから気づいてた?」

それには答えず、ぼくはもう一度酒瓶を見た。ネップ・モイ、と書かれたラベル。

彼が言う。

「それ、アーモンドの香りがするんだよ」

「おいしい?」

「おれは好きだけど」

「じゃあこれにする。こないだ泊めてくれたお礼」

思いがけなかったのか、彼は一瞬戸惑って、それから嬉しそうな顔をした。


力を込めて蓋を捻る。ネップ・モイの透明な液体が瓶の口からこぼれ落ち、グラスのなかへそそぎ込まれると、氷がひび割れる、こまかな音が鳴った。

こたつのうえに並べて置いた二つのグラスが、ぴったりおなじ量になるようにそそいだ。黄色いビニール袋から彼はカツ丼をとり出し、電子レンジに入れた。

ぼくたちは、ぼくについてでも、彼についてでもない、とりとめない話題ばかりをした。たとえば、ネアンデルタール人の話。それから、バンクシーの描いたグラフィティアートのことや、チューリップバブルのこと。ぼくについて彼に新しく話したことといえば、冬の季節がいちばん好きなこと、自分が思っている以上に人から見れば寒さに無頓着すぎること、植物園に行くのが好きなことくらいだった。彼について新しく知ったことといえば、植物園の近くのカフェで働いていること。いっしょに働いているアルバイトの大学生がいけすかないこと。暖房の効いているのもあり、ぼくたちは気持ちよく酔った。

ぼくは、レインに火をつける。

「気に入ったの、それ?」

笑って彼はそう言って、台所で食べ物を探し始めた。ぼくは洗い物うけに伏せてあるケーキ型や粉ふるいを見つけ、彼の背中に言った。

「ケーキ焼くの?」

「カフェで、ふだんは焼く人が決まってて、おれの担当じゃないけど、ピンチヒッターのときもたまにあるからさ、家で練習してるんだ。甘いもの好き?」

「うん」

「こんど焼いたらあげるよ」

冷蔵庫に眠っていた煮干しを小皿にあけて、二人でかじった。

「シウタは存在感がある」

ぼくの名を彼がはっきり発音したのは、このときが初めてだった。

「スーパーで、自動扉が開いた瞬間すぐに、いる!ってわかったもん。姿が見える前に。なんていうか、オーラ発してる」

「隣、空き室だと思ってたくせに」

「ほんと不思議だよ。なんでだろ。でも生活感なさすぎ。ほんとうに生きてる?」

彼は明るく笑った。


床で目覚めた。覚えていないけれど、毛布をかぶっていた。ベッドから慌てて飛び下りた彼が服を着ながら「まだいる? おれいますぐ出るから。鍵かけてポストに入れといて」と言う。

ダッシュで歯をみがいて顔を洗って、水道水で濡らした手で寝癖を撫で付けながら整髪剤を容器ごとつかんでかばんに突っ込み、慌ただしく玄関を出ていった。

こたつのうえには、キーホルダー付きのこの部屋の鍵が置かれていた。その鍵は、ぼくとミノリの部屋の鍵とそっくりだった。ポケットから、ぼくらの部屋の、何もキーホルダーを付けていない鍵を出し、二枚重ねてみた。ギザギザの配列だけが、少しずつずれているだけの、いわば兄弟。でももっとよく目を凝らせば、全然違う向きや場所についたこまかな傷がいくつもあった。ぼくは部屋を出ると、言われた通り鍵をかけて、ポストへ落とした。

ミノリのいない、ぼくらの部屋に戻る。

台所のガス台にはルイボスティーが入ったままの鍋があった。ガスレンジの火を点ける。しばらくしたら音がさきに沸き、鍋肌に小さなぷつぷつとした泡が出始める。火を止めた瞬間、ルイボスティーの表面から湯気が上がる。お玉を使って、マグカップに注いだ。

小さなテーブルのうえに置かれた白い紙袋に手を突っ込み、昨日買った、少し生地の硬くなったクリームパンを食べた。

買った翌日のクリームパンは、風味の消えた生地にしろ、不用意につめたい中身にしろ、あまりの劣化に失望させられる。ミノリのために買ってきたくるみパンは、わかっていた通り、ふた口目には渋皮のアクにやられて、口のなかがひりひりし出した。

わりと最近まで、ぼくは自分の分も選んでくるみパンを買っていた。ミノリもくるみを食べれば、ぼくとおなじようになるのだと思い込んでいた。それでも食べたいくらい好きなのだと思っていた。体質の小さな違いが発覚したとき、ミノリはとても嬉しそうにした。二人の相違点を発見するたびに、ミノリは喜ぶ。ぼくとミノリは、とてもよく似すぎているから。

温かいルイボスティーが喉を通り、空腹を満たしたら、冷静な気分を取り戻してきた。

玄関を出て、彼の部屋の前まで戻り、ポストを開けた。

薄っぺらい鍵をとり出し、ふたたび部屋のドアを開けた。玄関で靴を脱いだら、まっすぐに歩いて向かい、カラーボックスの前で足を止めた。そこに置かれた壜のなかから、ターコイズブルーの一本を選り抜き、ライターで火を点ける。

煙は不安定に左右に揺れるが、すぐに細い一筋にととのう。まっすぐうえへ向かって伸びる。ぼくはベランダのガラス戸を開けた。煙が揺れ動き、気流に沿って、ややベランダ側へ流れる。ただのノスタルジーなんかじゃない。レインの匂いは、ぼくに懐かしい雨音を、特定のいつかの雨音そのものを思い出させようとした。はるか昔にぼくが体験した、あの雨音だ。手繰り寄せようとするけれど、あと少しというところで、記憶はまさにくゆる一筋の煙のように、はしを消して、掴まえられるのをしたたかによけた。

レインが一本燃え尽きると、ぼくはその場で服を脱ぎ、バスルームへ入った。

ぼくの部屋とおなじ造りだけれど微妙に色味の違うタイルがはられていて、カランの赤いマークのプラスチックが外れてなくなっていた。煙の匂いが染み込んだ髪の毛を洗った。ポンプ式のボトルからシャンプーを手のひらに出した。いつもと違う泡立ちのシャンプーは、風呂上がりの彼とおなじ匂いだった。タオルはその辺にあったのを適当に使った。

裸のままでベッドに倒れ込み、毛布にくるまると急速な眠気に襲われた。

玄関の外から足音が近づいてきて立ち止まり、鍵を回すその音で目が覚めた。もう部屋のなかは真っ暗だった。玄関が開き、電気が点く。給湯器から湯を出してうがいをしていた彼は、ベランダのガラス戸が開けっ放しになっているのに気づいて、いぶかしそうに歩いてくる。

「いま何時?」ぼくは突然声を発した。

彼は驚く。

「まだいたのか!」

眩しさに目をしかめ、大きな欠伸をした。

「一日じゅう?」

「シャワー借りた」

「服着ろよ」

呆れたように裸のぼくを見て彼は笑っていた。

「ふとんのなかではこのほうがあったかいんだよ」

そう言ってぼくは毛布に絡まって寝っ転がった。

マフラーを解いてコートを脱いだ。彼は、またグラスを二つ出してきて、「飲む? 昨日のつづき」

ぼくがうなずくと、こたつのうえにグラスをとん、と置き、ネップ・モイの透明な液体をそそいだ。

「こないださ、鍵落としてうちに初めて泊まったときさ、朝、シウタが、おれが何かのうたをうたってたって言ったの覚えてる?」

「うん」

「どんなうたか覚えてる?」

「んー」

ぼくは首をかしげる。

「いいうただった。じょうずだった」

「ふーん」

彼はうつむく。

「あれは、何のうた? 本当に無意識だったの?」

「うん」

「へえ」

彼は腕を組み、考え込みながら話す。

「……いま思えば、不思議なんだけど、子どものころ、頭のなかにずっと音楽が流れてたんだ。四六時中、音楽はいつまでも流れていた。あのころは、誰でもそうなのかと思っていた。保育園で友達と遊んでるとき、『いっしょにうたおう!』って言って大きな声でおれがうたい出したら、そんなうた知らないってそっぽを向かれて。当然誰にでも聴こえているものだと思っていたからびっくりした。他の人には聴こえないんだって初めて知った。ずっと聴こえつづけていたんだ。あのころはずっと、それがふつうだった。九才のとき、両親の離婚が決まって、家がイヤ~なムードに包まれていた時期にさ、よく真夜中に家抜け出して、近所の誰もいない歩道橋のうえで、走りすぎていく車の轟音に掻き消されながら、大声でうたうのが好きだった。真夜中の交差点って、知ってる? 赤信号と黄色信号が交互に明滅してる。車も何も通らない道路を歩道橋のうえから一人で眺めて、空へ向かって大声でうたってた。風は肌寒くなって、雨が降ってきたから帰りたくなった。歩道橋を降りる階段で、段を一歩下りるごとに、雨の音が強まって、頭を流れる音楽の音が減っていくのに気づいた。聴いたことがない鮮明な雨音が耳もとで鳴って、いま自分のからだのなかから音楽が消えるんだって直感した。それまで音楽は無限にあって、生きているかぎり止まないものだと疑わなかったから、気が動転した。走って帰って、引っ越しの荷造りの途中だった、封をしてしまった段ボール箱のガムテープを剥がして、父親からもらったICレコーダーをとり出した。録音の赤いスイッチを押さえるとゼロ秒からカウントが始まる。音楽が失われつつあると思うと、とつぜんに涙がぶわっと溢れ出した。からだの奥から溢れ出した涙はなかなか止まらなかった。おれは音楽に耳を澄ませようとした。泣き止もうと必死で声を殺し嗚咽を殺した。いったんICレコーダーを停止して、台所で水を飲んで、呼吸を落ち着かせた。でもまた録音スイッチを押そうとしたとき、しんと静まり返ってた。それ以来永遠に何も聴こえない。頭のなかに音楽は鳴らない」


ミノリは、台所が好きだ。

鍋を火にかけているあいだ、ふだんは書き物机に置いている木製の丸椅子をガスレンジの傍まで持っていき、地図帳を読みふけっていることがある。ミノリの愛読書は、外国の地図が多い。シンクのうえに置きっぱなしになっている地図帳をひらいて見たことがあるけれど、ぼくにはそのおもしろさはわからなかった。

冷蔵庫を開けた。玉子、とうふをとり出し、調理台に並べた。

生まれて初めて挑戦する。

玉子は、茹で玉子。とうふは、湯どうふに。茹でるだけで完成する、ぼくにでもつくれそうなメニュー。玉子は茹でているうちに沸騰の震動で鍋肌と玉子どうしがぶつかりひびが入って、白身がはみ出してぶくぶくに泡立った。しかも殻をうまく剥けず、白身が削れて、固茹でのでこぼこに仕上がった。とうふは煮詰めていたら、風味のないぼそぼその白いくずになり果てた。

料理とは呼べない残念な食事を平らげたころ、玄関ドアがノックされた。わざわざ玄関を開けなくてもお互いをわかるようにと決めた、彼とぼくだけのノックのリズム。

コン、コココン。

ドアを開けたら、廊下には彼の姿がなかった。ぼくは隣の部屋をノックせずに開ける。

チョコレートの焼けるこうばしい、甘い匂いが部屋に充満していた。彼は固く絞った布巾で、調理台にこぼれた砂糖粒をていねいに拭いていた。

「いい匂いがする」

鼻をくんくんさせながら部屋に上がった。いつしか自由にこの部屋を出入りできるようになっていた。彼にとっては犬猫でも飼っている気分かもしれない。

「ガトーショコラだよ。冷蔵庫に勝手にチョコレート入れてたことあっただろ。さっき思い出して、ちょうどケーキの練習したかったからつくったんだ。混ぜて焼くだけの簡単レシピ」

オーブンが焼き上がりの音を上げる。

「味見しよう」

そう言って、彼がナイフで小さめにカットし、小皿に取り分けてくれた。笑顔でぼくに差し出す。ぼくはサイコロ状のガトーショコラを指でつまんで口に入れた。

ココアの濃い香りが口に広がる。表面はカリッとなかは滑らかな舌触りだった。

「美味しい!」

「おれ、あんまり甘いの得意じゃないから、シウタにあげるよ」

「全部くれるの?」

「うん。いもうとさんと二人で食べて」

ぼくが思わず黙ったら、変な間ができて、彼は「ん?」と、いぶかしそうにぼくに笑った。

「帰らないんだ、最近」

ぼくはなるべくたいしたことではないふうに聞こえるように、気をつけて言った。

「え?」

でも彼はさらにいぶかしげになる。

「いもうとはいないから、一人で食べるよ」

「なんで帰らないの?」

「言わなかったっけ? 気に入らないことがあったら、いもうとはすぐに家出するんだ」

目をそらして言ったけれど、視線を戻すと、彼は深刻そうな表情に変わっていた。

「どっか行くあてとか、心あたりはあるの?」

「知らない」

ぼくは台所でインスタントコーヒーの粉をマグカップにこぼし、薬缶に湧いた湯を注いだ。

「いつ帰ってくるかわからないんだ。もしかしたら一生帰ってこないかもしれないし、もしかしたらこのすきにもう帰っているかもしれない」

彼は隣のぼくらの部屋側の壁を見る。

「いや、物音しなかったし……。電話かメールしてみた?」

「してない。持ってないから、携帯電話」

「シウタが? 二人とも? いもうとさんが?」

「いもうとは持ってる」

「おれの貸すから、いまかけてみれば。あ、番号わからないか」

「わかるよ」

差し出されたスマートフォンを受け取り、ぼくは表示された、マス目に並ぶ数字を迷いのない指の運びでタップしていく。そらで覚えている、十一桁の数字。発信ボタンを押して、耳に当てる。

「大丈夫だよ」

受話口から洩れるコール音。留守番電話にも切り替わらない。

「幼子じゃあるまいし」

つめたく聞こえるようにこころがけたら、しようとした以上にきつい言い方になった。

コール音が鳴りつづいている。いくら待っても、ミノリは出ない。


冷蔵庫を開けると、彼にもらったガトーショコラが皿に載せてある。ごく小さめにカットした。紅茶を淹れた。

まだ正午を過ぎたばかりで、ベランダから見える太陽は明るかったけれど、フォークでガトーショコラを少しずつ削りくずすようにして、ケーキを食べ終えるころには、いつのまにか日が暮れ部屋も暗くなっていた。濃すぎる紅茶は冷えきっていた。

眠たくなったので目を瞑ったら、いとも簡単に、まどろみに呑まれる。


カリンの樹肌は皮の剥がれ落ちた部分とまだのこっている部分で、まだら模様ができている。子どものころ真夏の海で、日焼けしたミノリの肩のように。

「焼きたて」の札がかかっていたから選んだのに、ほおばったパンはもう冷え切っていた。植物園近くのパン屋で、テイクアウトした明太子フランス。トールのホットコーヒーでかろうじて指さきを温める。

すっかり葉の落ちたシダレエンジュ越しに、寒々として人けのない植物園を眺めた。白いバラ、黄色いバラ、黒いバラ、赤いバラ、ピンクのバラ。ちらほら咲いていた。LEDの管が巻きつけられた木の幹や、動物のかたちをしたオブジェ。階段や花壇に施された装飾。夜になればライトアップされる。

あいまいな夕方。あいまいな曇り空。この季節は、だいたいこうだ。

小さな太陽の逆光で、群生したすすきが白く美しく透ける。

視界が開け、広がる枯れた芝生の広場には、時計台が立っている。十六時を示す時計台には、太陽発電の小さなソーラーパネルと、風力発電のプロペラが備えつけられている。

ミノリがいないことはすぐにわかった。人けのない植物園を一周したら、表へ出た。

ぼくを見つけた彼がガラス扉を開けて店の外に出てきてくれた。相変わらず清潔感のある爽やかな容姿で、うれしそうに親しげに笑いかけてくれる。

「来てくれたんだ」

白いシャツと、黒い腰からのエプロンをつけた、カフェ店員らしい恰好をした彼からはバターと小麦粉とミルクの混じった甘い香りがした。

「いらっしゃいませ」

ガラス扉を開けて店内に通されたぼくの目に飛び込んできたのは、吹き抜けの広々とした空間と、色とりどりの壺だった。古い建物だけど、現代的に改装されている。

天井まで壁が一面棚になっていて、色とりどりの陶器がディスプレイされている。吹き抜けの二階席へつづく壁際の階段を指さし、彼は言う。

「二階が喫煙席なんだ。煙はうえにいくから」

空間全体が陶器のギャラリーとして機能している。二階にもガラス張りの棚があり、いくつも陶器が飾られているのが見えた。高い天井には墨で力強く描かれた大きな鳥の絵がある。

「工場にいる絵付けの職人さんが描いたんだって」

「こうば?」

「近くにあるんだよ。見学できるよ。よかったら」

ぼくは首を横に振った。

「そう」

彼は天井を見上げたまま穏やかに説明した。

「このビル、数年前までふつうの陶器屋だったんだ。倉庫みたいな雑然とした感じで、この部屋じゅう壺の棚が置かれていたんだけど、カフェに改装したとき棚を片づけて、壁に陶器をディスプレイしたんだって」

ぼくは彼の目線にしたがって、ホール全体を見渡した。こげ茶色の木製の丸テーブルと椅子が配置された、一階フロアの真んなかにはグランドピアノが置かれ、壁にはオーナーの親類にあたる作家が描いたという壁画。ひかえめに流れるBGMのクラシック音楽が、吹き抜けの二階へ上り、ほどよくフロア全体に響いている。ピアノの前にある柱にはマンスリーピアノコンサートの案内がはりだされていた。上品な書体でクラシックの曲名が記されている。本物のピアノの音色なら、この空間にさぞかし綺麗に響くことだろう。小さな中庭を挟んで、奥にも陶器の置いてある部屋があった。

ぼくはカフェの一番隅の席に着いた。中庭に面した席だった。広々とした店内に比べ狭そうな階段下のスペースがキッチンだった。

氷の入ったグラスとおしぼりと、メニュー表を持ってきてくれた彼は、この空間によく似合っていた。

「ブレンドコーヒーとチーズトーストをください」

「かしこまりました」

自然な、感じのいい発音で、彼は言った。

グラスの水はレモン水だった。こんなに広い店内に、客はぼく以外二組しかいない。

陶器と植物のセット売りを集めたコーナーに、ウォーターコインの苔玉を見つけた。ぼんやり眺めながら、ミノリはこれを選びそうだな、と、いつのまにか考えている自分に気づいた。ブレンドコーヒーとチーズトーストが、彼によって運ばれてきた。カットされた塩パンのチーズトーストは、バターの香りがほどよく、アクセントにわずかなマスタードが利いていた。ぼくはこのカフェをとても気に入った。

くつを脱いで椅子の上に立ち、彼は左手に陶器を持って、右手の布で棚を拭きそうじしている。

「仕事、何時まで?」

チーズトーストのセットをたいらげると、ぼくは働いている彼にたずねた。

「待ってたらいっしょに帰れたりするの?」

「ああ、今日は無理。ミーティングあるから。いつもミーティングは夜中までかかるから」

「そんなに?」

「営業時間すんだあと、食事しながらあーだこーだ話し込んで、結局ね」

「そっか」

会計をすませカフェを出ると、ぼくはまた植物園へ向かった。イルミネーションイベントの入場時間にはまだ早くて、植物園の外を一周ぐるりと歩いた。あたりはすでに真っ暗だった。つめたすぎる空気と地面のせいで、うすっぺたい靴のなかで足の指さきまで冷え切った。

入場門に戻ってくると、園内へ向かって行列ができていた。イルミネーションイベントの入場券を買う列だ。

人はにぎわい、バイオリンのミニコンサートも行われている。キッチンカーが並んでいて、石釜ピザやケバブ、缶ビールなんかが売られている。花壇のアーチや階段や樹木に装飾されたまばゆい光。ところどころに設置された動物を模した人工的なオブジェ。ナイトトレインも走っていた。けれど、光り輝くつくられた色にはうるささがあった。何をしてもしょせん、太陽のもとで見る花の色にはかなわない。

ぼくはすれ違う人の顔をよく見て歩いた。でも、ミノリはこんな催しにまぎれ込んでいるとはとうてい考えられなかった。何を手がかりにしていいかわからない自分にいやけがさした。

彼女がぼくに物を投げつけて部屋を飛び出していくなんて珍しいことじゃない。でも何となく、今度こそは帰ってこないんじゃないかと思った。

しずかで暗い街を一人歩いて帰った。人殺しみたいな冷気がたえず、ぼくの足を狙って吹きつけてくる。無限にわき出てくる冷気は、地面がつづくかぎり延々につづいている。おかしな場所を曲がったのか、歩いても歩いても終わらない道。まっすぐなのに、すぐそこに見えるコンビニにさえなぜかいつまでもたどりつけない道を歩いた。歩道橋。何も走らない四車線の車道。立ち並ぶ無言のマンション。永遠にぼくしかいない舗道。

ぼくの手は、かじかむのに慣れている。幼いころから、しもやけになっても気づかなかった。ぼくも、ミノリも。知らない大人に心配されても、つらいという感覚はなかった。

体温をうばわれればうばわれるほど、ぼくは自分のかたちを、自覚した。服を着ていても関係ない。髪や瞳、鼻筋とくちびる。全部つながっている、皮膚や、臓器、骨、筋肉や、血液までも、その造形はぼくの意識のなかでおどろくほど鮮明に、むきだしになった。

アパートへ帰り着いたときにはくたびれていた。

まぶたを閉じるみたいにドアを閉じたけれど、暗い玄関のたたきに立ち尽くしたまま、なぜか倒れ込むこともできず、電気を点けたりくつを脱ぐ思考力すら奪われていた。

空洞だった。どれくらい空洞のまま、時間が経ったのかわからない。おそらく長い時間だったと思う。

コン、コココン。

ぼくの背で、ドアがノックされた。空洞のぼくはノブを握っていた。ドアを開けたら、彼がいた。ずっと暗闇にいたせいで、光る街灯の明かりでさえ眩しくて顔をしかめた。

「何だよ、いまから出かけるの?」

電気の消えた部屋と出かける服装をしているぼくを見て彼が言う。

「まさか」ぼくは笑って首を振る。

「ちょっとだけ、うちで飲まない?」

すぐに、うなずいた。

「ミーティングの帰り誘われてさ、一杯だけ飲んできたけど、そいつがヤな奴で、飲み直さないと、むかむかしたまま眠りたくなくて」

笑ってそう話し、彼は自分の部屋の鍵を開けた。

部屋に上がると、ぐるぐる巻きのマフラーをほどいていつものように給湯器の湯で手洗いうがいをした。そしてまた、バスルームの水道を出しっぱなしにして、水がお湯に変わるまでのあいだに服を全部脱ぎ、ぼくに「準備しといて」と言いのこしてバスルームの扉を閉じた。

ぼくも手洗いうがいをしようとしたけれど、指がかじかんで、思うように給湯器のスイッチを押すことができなかった。手をグーにして長押ししたら、湯気をまとったシャワーが勢いよく飛びだす。冷たさがひどすぎる、指さきに浴びたら、そんなはずないのに熱湯のような熱さに感じた。しばらくそのままで、痛みにも似た感覚がとおりすぎ、その温度になれるのを待った。

グラスを二つ出してこたつテーブルに並べた。かたくちいわしをオーブントースターにセットする。

何度もこうして飲んでいる。

かたくちいわしの煮干しをさかなにするのが二人とも一番気に入っていた。ほんの少し焼いてから、身がやわらかくなるくらいで小皿にうつした。

濡れた髪をタオルでごしごしやりながら、彼がすわり、グラスをとって覗き、冷凍庫を開けて氷を入れた。ぼくも自分のグラスを差し出してついでに入れてもらった。最初のときからかぞえて何本目になるかわからないネップ・モイのふたを開けた。ネップ・モイのボトルはいつでも食器入れの横にストックしていて、新しいボトルを開けたら、翌日にはつぎのボトルを買い足すようにしていた。

「シウタはあれからまっすぐ帰ったの?」

「植物園でイルミネーションがあったから、それに行ってた」

「一人でイルミネーション?」

「うん、いもうとがいるかもしれないと思って。探しに行ったんだ一応」

「ああ。いもうとさんそういうの行くタイプ?」

「ぜんぜん」

「お前、くちびる変な色」

ふいに彼がぼくのあごをさわった。

「え!」

そのつめたさに声を上げる。

「ロック飲んでる場合じゃないだろ。からだ冷え切ってる。なんかあったかいもの飲む? それかシャワー浴びるか。そうだ、それがいいよ」

まだ湯気ののこるバスルームは裸になってもあたたかかった。シャワーでお湯を浴びたらまた熱湯のような熱さを肌に感じた。しばらくすると呼吸がしやすくなった。バスルームを出たぼくに、彼は、初めてこの部屋に来たときとおなじ真っ赤なタオルを差し出した。

「さいしょにここに来たときも、この赤いタオルだった」

ぼくが言うと、彼は笑い出し、「そうだね。よく覚えているね」とうれしそうにした。そして温かいほうじ茶を淹れてくれた。

「心配なんだろ。いもうとさんのこと。シウタは案外人間らしいところあるからな。いい意味で。最初は浮世離れしてると思ってたけど」

「どういうこと?」

彼と並んで床にすわった。ベッドにもたれてほうじ茶を飲んだ。

「やさしいってことだよ」

彼は、あいかわらずネップ・モイのグラスをはなさない。少しは酔っぱらっているはずの横顔が、いつもよりよけいに笑っている。

「いもうとってかわいい?」

「どうかな」

「おれもおとうとといもうといるんだよ。話したことないよね」

「かわいい?」

「おとうととおれは仲悪いよ。いもうとは、会ったことない」

彼はどう話せばいいか考えながら、かたくちいわしを振り回し、陽気に説明する。

「まず、おれとおとうとは、おなじ母親で、おれといもうとは、おなじ父親。いもうととは会ったことがない。わかる? おれの両親が離婚して、それぞれ再婚して、それぞれが新しい相手と子どもを持ってる。ハイ、つまり、おとうとといもうとの関係は?」

彼はマイクに見立てたかたくちいわしをぼくに向けた。

「赤の他人?」

「正解!」

ぼくは自分のグラスに再びネップ・モイをそそいだ。

「十才のとき両親が離婚して、母親についていった。母親は再婚して、おとうとが生まれた。おれ父親似だし、おとうとも父親似だから全然似てなくて、たんに母親と再婚相手との子どもって感じ。仲も悪かったし。いちおう四人家族だけど、おれだけ別物みたいだった。ずっと。三人家族プラスおれみたいな。被害妄想じゃなくて、実際に母親に言われたこともある。口論になって。おれさえいなければってこと、全員に言われて、ひどいなって思って、傷ついたけど、むしろおれ自身もずっと感じてたことをはっきりさせることができたし、きっかけになったし、よくはないけど、それで決心することができた」彼はいつものように明るく笑っている。「いまのおれの苗字、母親の旧姓なんだ。苗字を変えたんだ。一人暮らしを始めるとき。十才のとき、自分の意思と関係なく自動的に苗字がころころ変わったのが苦痛だった。二十才になったから自分の意志で、変えられる。もうあの人たちとは家族じゃない。非可逆的にするために。母方に親戚はいないから、めずらしい苗字だし、名乗っているのたぶんこの世でおれ一人なんだ。天涯孤独だよ。名実ともに」

彼はとつぜん涙をこぼした。

「なのに血のつながりは消せない」

ぼくは彼を抱きしめて、頭をくしゃくしゃに撫でた。抱きかかえたからだはつめたくもあたたかくもない。おなじ体温だということだ。彼の顔を覗いて見た。濡れている頬に手をあて、くちびるとくちびるを合わせるのは簡単だった。

驚いた彼がぼくを突き離す。しかめた顔で、こちらを見つめる。

ネップ・モイの持つアーモンドの香りのなかで、溶けるような感覚で酔っていた。彼もきっとおなじはずだった。

一瞬の沈黙のあと、彼がまた陽気に笑い出した。彼のほうから、ぼくへキスをしてきた。

ベランダのガラス戸の外は、夜明けが始まっていた。

彼がぼくにもたれ、寝息を立て始める。ずしりとおもく体重がかかる。彼の顔は、とても美しく、ぼくと全然ちがうかたちをしている。体温はおなじで、一つだった。鼻さきを合わせ、またそっとくちびるを合わせた。背中から彼を抱きしめ横たわり、からだを丸めた。ぼくは、彼の手のこうに、手をかさねた。


ミノリはごく自然に「ただいま」と言って帰ってきた。

(続く)



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インディーズ 小説家・劇作家。Amazonなどオンラインストアで紙の本・電子書籍を発売中。 https://inuitakashi.myportfolio.com/about
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