日記(2020/4/21):敬語のテクスチャ
0.何があった?
まあ、なんか失敗があったと思って下さい。
この記事は、要するに、その反省文です。
かーっこわるー。
1.敬語は、利害と権利が問われる時には、大事なシグナルだ
敬語を使うフォーマルなモードは、
「場や場の全員をナメている人が一人いると、そいつが場や場の全員を、スナック感覚で踏みにじって食い物にして我が物顔で振る舞う。
場や場の全員はそいつの踏みつけにしていいものではないし、ましてや踏み台ではない。
しかもそいつはここが「居心地がいい居場所とその要素」のつもりでいやがるし、「ここで我が物顔で振る舞うことは、自分に許された当然の権利である」と思い込んで、疑いもしないだろう。
だからそういうやつは居たたまれない目に遭わせて追い出す」
という時に非常に効き目がある。
(これを「何でそんなに警戒しているのだ?」と鼻で笑う人がいるだろう。
だが、社会をやると、この問題は、かなりどこでも広範に見られるだろう。
特に、その場が、何らかのメリットに関わるものであればあるほど、この問題は起こる。
それが「利害」や、安定した利益をもたらす「権利」に関わるものであれば、ふつうはこの問題には直面を余儀なくされていることだろう。
少なくとも俺はこれを体験してきたのであり、「そんなものは警戒に値しない。警戒している人、おかしいよ」などとは安易には言えないんですよね)
2.利害や権利が脅かされない場では、敬語を使わないインフォーマルなモードが好まれる
利害や権利が脅かされない場では、敬語を使わないインフォーマルなモードが好まれる。
敬語に割かざるを得ないリソースは、そのままコストなので、それが強く要請される「のでない」場合は、そりゃあ削減されるだろう。
これはしばしば忘れられていることだし、頑強に否定されるところでもあるが、ふつう、敬語はコストですよ。
配慮をすると脳はそれなりに消耗するし、そして敬語は歴史的に見ても配慮の産物なんだから。
だからこそ、敬語を使わないインフォーマルなモードは、インフォーマルな人間関係では、呼吸のように風通しが良い。
3.敬語がもたらす、場の感触(テクスチャ)がある
利害や権利が関わる場では、敬語の遵守は強く要請される。つまりは、フォーマルなモードが徹底される。
利害や権利が脅かされない場では、敬語は使われず、結果的にインフォーマルなモードが徹底されているのと同じことになる。
これにより、喋っている時に、
「この場は、何らかの回路によりもたらされる利害や権利が大きいので、成員をナメて食い物や踏み台にする傍若無人な人は、望ましくないんだ」
あるいは
「この場は利害や権利があまり関係ない場なんで、のびのびやるのが望ましいんだ」
というのが、少し気を付けると肌で感じられるようになる。
そういう、敬語のフォーマルまたはインフォーマルなモードの徹底によってもたらされる、「ここはどういう場か」という肌触り、感触、テクスチャがある。
こうした敬語のテクスチャが体感できるようになるには、実はセンスや馴れやコツが要る。まあ基本は馴れだ。
馴れることによる、場でやっていく適応上の見返りが、かなり大きく出て来るので、馴れた方が「お得」なんですよね。馴れていきましょう。
4.フォーマルとインフォーマルのごっちゃが一番良くない
さて、ここで、私の失敗の話を、ぼかしてします。
何かというと、要は、フォーマルとインフォーマルが混ざると、テクスチャがバグって、相手は混乱して、引くんです。
先日やらかして変な空気になりました。アチャー、ですよ。全く。
敬語がちゃんと使えてないが、気持ちばかりが先行して、敬語を使いたがる人が、このバグで酷い事になる(俺とか)。
この文章も、「です・ます」と「だ・である」が混在していて、俺は書きやすいし、喋る時もこのノリだが、どうやら読んだり聞いたりする相手はザラッとしたテクスチャを感じるようなのだ。
ごめんなさい。
***
もちろん、インフォーマルなモードでやっていくなら、敬語のことなんかどうだっていいんです。
でも、生きていると、「ナメられちゃあいかん」という局面はたくさんあるでしょう。
というか、もっと切実な話として、「ナメられたら殺す」と思われてしまう局面が、もう本当にたくさんあるでしょう。
そういう時のために、敬語、気を付けましょう。
***
そして、そうじゃない時にまで、敬語に拘らないようにしましょう。
言動がバグりますよ。俺みたいに。
ハア~…(ヘマこいたんでクソデカ溜息吐いている)
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