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随筆(2020/8/5):「話したい」ことをちゃんと「伝わるように」話さないと、望み通りには伝わらない

(ヘッダ画像、テーマからしたら、おおよそ最悪のチョイスでは?)

(だって怪文書に関する内容でもあるし…)

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時々、自宅作業で、ストレスや疲労を誤魔化すために、強い酒を呑んでブーストしていることがあります。

で、そういう時は、パソコン使っているから、Twitterやnote(やその他)を同時にやってることが多いんですね。
シラフになった時に、そういうモードで書いた文字列を見ると、ぎょっとすることがあります。

そもそも自分でも何を言っているのか分からない。
なんか話したかったのだろうが、何を伝えたいのかはさっぱり分からない。

という文章が出来上がっている。

これを、他人に投げかけたり、広く公開するの、ホラーですよ。
ふたばちゃんねるにしばしばいる怪文書投稿者は、怪文書独自の面白さを意図して、ネタとして書いているものだが、これはそうじゃないもの。ネタにすらならねえ。

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自分でも何言ってんのか分かんねえ文章が、他人に分かってもらえる可能性は、まずない。
どういう意図で書いているのか、読み解きが必要だし、最悪話者本人にも分からない。
となると、これが「意図通り」に読まれることは、まず不可能になる。
何が意図していたことか、自分でも忘れたか、分からなくなっているんだもんな。
それじゃあ、意図通りかどうか、話者本人にすら分からない。お話にならない。

まして、こちらの期待する傾向の、たいていは肯定的な感情を帯びた、「望み通り」の反応、というものが、帰ってくる可能性も、まあない。
下手すると、「は? 訳の分からないこと言ってんじゃねーぞ」と否定的な反応をされてしまうだろう。当たり前なんだよな。そんなの。

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あるいは、曖昧な反応で返されるかも知れない。これもよくある話だ。
が、それはたいてい、なんか既に人間関係があるからだ。
否定的な反応をすることで、「人間関係を壊したくない」からだ。
逆に、人間関係がなかった場合は、これは「揉め事を避けたい」からだ。

いずれにせよ、曖昧な反応をされた時点で、話そのものは、「伝わっていない」のだ。と判断した方が良い。

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「伝えきりたい」と思うだろうが、そこはグッと我慢して、ちょっと立ち止まって、考えて欲しいんですよ。

「伝えたい」話が伝えられないなら、その話は、自分が一方的に「話したい」話と、区別がつかない。
「伝えたい」話が、「話したい」話と同じ解像度でしか表せないなら、「伝える」のは諦めるしかない。
断腸の思いだろうが、何だろうが、そうなっちゃうんだ。ということは、分かっておいた方がいいですよ。

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話す側が「伝えたい」話を伝えきれないなら、聞く側にとっては、それはその話そのものが鬱陶しくなる。
聞く側は「こいつ、なんか伝えようとしているんだろうが、どうも伝わらないぞ。読み解くの、疲れるなあ」と思っている。
そういうことを熱心に集中的にやっていると、おそらく、人間関係を壊す方向に働く。やめた方がいいですよ。

そもそも、シンプルに人間関係をやるのなら、下らない話を、人間関係のクッションとして、気泡緩衝材(プチプチ)のように詰め込んだりするのも良いかと思います。
また、プチプチを一個一個潰すみたいな気分で、「伝える」ではなく「話す」に興じることも、これも許されるかと思います。
そういうことが許されているところに、親しい人間関係の有り難みがある。そういう風に最近は考えています。(そういうのは小学校の仲間付き合いの頃に分かっておきたかったな)

でも、あまりにも理解不能な、有難みを鬱陶しさが上回る話を、延々と聞かされると、人間関係も怪しくなってくる。
だって、謎の語彙で喋ってくる人がしてくる世間話なんか、「何言ってんのか分からん」としか答えようがないし、そうでなければ曖昧な反応しか返しようがなくないか?
メチャクチャ疲れる人間関係ですよ。
そんなの。続けたくないな。と思われても、まあしょうがないでしょうね。

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だもんで、聞く側から曖昧な反応を返されたら、
「伝わってないし、自分には伝える態勢が整っていない。
伝えるのは諦めよう。
もっと話の解像度を高めて、精進してから、伝わるように、伝えよう」
というのが、一番適正な在り方なのだろうと思います。

緊急の場合? それは、切迫した気配を帯びた、短文の会話で、たいてい事足りる。
むしろ、細かくぐだぐだと説明することが、緊急の場合は、邪魔であることもある。
「いいから」「今すぐ」「危ないんだ」を付けるだけでだいぶ違うが、それら以外、付け加えること、ふつう、なくないか?

重要な場合?
それこそ腰を据えて「伝えなきゃなんない」んだから、解像度を上げなきゃ伝わらないのだし、解像度を上げるしかない。ここからは逃げられない。

重要で、かつ、やや緊急性があるなら、自分より解像度の高い、ベシャリの美味い人を挟んで、伝えるのも手かと思います。
そういう人は、曖昧な話を、曖昧でないレベルにまで、解像度を高めて聞いてくれる。
話を整理してくれるかもしれないし、もっと有難いことに、本来の聞く側に、代わりに説明してくれるかもしれない。

もちろん、きちんと「自分では解像度が低いので伝えきれない、話を整理して欲しい、お願いします」と断りを入れてお願いしなきゃならないのですが。
せめて、自分が何をしたいのか、相手に何をしてほしいのかを「伝えなきゃならない」。
これは、これはコミュニケーション、特にお願いにおける、かなり大事なポイントです。

そしてもちろんそこはご相談だし、向こうにも都合があるし、もしその都合もにかかわらず、強いてやってもらうなら、それなりの報酬が要る。
で、強いることが出来ないなら、そこはやはり自力で解像度を上げて説明するしかない。という話に戻ってくる。

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伝えるなら、伝わるように話さなければならない。
能力や態勢として伝えられないなら、伝えるのはスッパリ諦める。
それでもどうしても伝えたいなら、自分より話の匠(たくみ)である誰かに、助けてもらうようお願いする。

そんな三段構えの態勢で、やっていきましょう。

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