随筆(2020/1/15):魅力と評価と好意4-5(褒めるという行為が効かないとき他)

4.一方で、相手は自分のことを、ちゃんと褒めたり褒めなかったりしてくれているのか

褒め方や褒めなさの話の逆パターンとして、もう一つ大事な話があります。
要するに、ちゃんとした褒め方や褒めなさを、相手が自分に対してやっているかどうか、ということです。
これをやっているようなら、相手も自分に何らかの人間関係を期待している。
それが遊び友達・遊び仲間か、色恋沙汰のパートナーか、仕事利害関係者か、家族か、党派かはさておいて。
もしそうなら、そういう意図の上での褒め方や褒めなさは、自分としても真剣に受け止めたくなるでしょう。もちろん、真剣に受け止めましょう。

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ちなみに、人を信じていない人、割といます。私も、世間から比べれば、そうとう猜疑心の強い方でしょう。残念な話ですが。
そういう人は、信頼を結ぶために好意を得よう、そのために褒めたり褒めなかったりしよう、ということをする相手を見ると、まず非常に警戒します。
世間の塩対応に晒され続けて、猜疑心の強くなった自分に、それでも好意や信頼を示す人、世間から見たら異常者だ。つまり理解に苦しむリスクだ。
そりゃあ理解に苦しみますよ。周囲は自分に対してそんなことやってないんだもん。何でこの人たちは自分に対してそんなことやってるんだ? 頭おかしいのでは?
それくらい疑ってかかります。
疑ってかかられた方はカチンと来るでしょうが、そんなこと言われても、とにかく疑わしいようにしか見えないんだからしょうがない。

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だから、そういう人からの好意を得ようとする人、2つだけ気を付けなければなりません。
自分がなぜ相手からの好意を得たいのか、「ナンデ?」という問いに対して、きちんと相手に説得せなならん、ということです。
相手のどこに対して、こんなにも魅力を感じているのか。そこが説得出来ていなかったら、何もかもダメです。自分は相手にとって、理解に苦しむリスクと、何ら区別出来ないだろう。

ひょっとして、自分には少なくとも「見る」誠実の徳がある、と相手に思われたら、そこで少しは相手も真剣に受け止める気になるかも知れない。
こういう人は、世間を信頼していないから、「伝える」誠実の徳には絶望している。
だが、「見る」誠実の徳までも疑っている訳ではない。そこで「どうやら本当っぽい」と感じられたら、説得が通じる可能性はある。

今までの、「伝達や説得のために信頼が必要だ」という話は何だったんだ。この手の人たちの場合、そうなってないではないか。と思うかもしれません。
この手の人は本当に例外で、信頼を持たないので、むしろ現実の物事や成果がまだしも効き目があるのです。要は、仕事で現実の物事や成果に着目されるのと同じ理屈です。

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もちろん、説明の際には、失礼のないようにしなければならない。
だから、例えば、色恋沙汰においては、ある程度のロマンティック・ラブ・イデオロギーや、それにつながるエレガントな言い回しみたいなものが必要になります。

ロマンティック・ラブ・イデオロギーとは、性的愛着と人格的愛着と一夫一婦制が密接につながっていると良い、という思想で、恋愛結婚の思想的支柱であり、未だに支配的な考え方です。
ある種の学問では、これは弊害のあるものとしてかなり批判されてきており、まあそれはある程度分かるのですが、かなり多くの人は依然としてこれが大好きです。
直ちに日本に導入してソフトランディング可能な代替案があれば、これも変わるのかもしれませんが、未だにそういう話にはなっていないように見えます。

で、そんな状況で、これを書き替える? 信頼のない自分たちの代替案が正義で、弊害がある既存の思想は邪悪であり、それを受け入れているお前は邪悪かアホ頭だ、悔い改めよ、抵抗は無駄だ?
ふつうに考えて、そんな押し付けがましい親心行為、つまりはパターナリズム行為、相手がいい大人であるか、いい大人になった時点で、断固死ぬまで抵抗されるに決まってるじゃないですか。

だいいち、そういう人たち、既存の弊害のある制度を書き換える際に、下手すると世俗世間における政策的なヴィジョンがないし、受け入れ可能な評価軸もない(だからアセスメントが出来ない)。
そうなると、当然、説得を向ける側は、説得を向けられる側にとって、何も信頼がない。じゃあ、何言っても真剣に受け取られないだろう。無駄。

いや、本当に、何でそんな分かり切った負け戦をするのか? 正直、他人事ではあるのだが、そういうことをすると、誰も何も説得できなくなるよ。ということは正直に思う。
ヨーロッパで中世まで引き継がれた、ロマンティック・ラブ・イデオロギー「抜きの」家父長制は、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに、かなり大規模に打倒されたよな。
それを越える成果を出したいのなら、出せると言いたいのなら、「我々は勝てなかった、あいつらが邪悪でバカだからだ、ちぇっ」につながる、負けても格好のつく言い訳めいたポーズ、何一つ容認出来ないのではないのですか?
だってそんなポーズは直ちに「真面目にやる気がない」というシグナルになるし、じゃあ信頼なんて形成されなくなるもの。速攻で雲散霧消するもの。

そういうポーズを決めながら負け戦で負ける、『深く美しきアジア』の完美王みたいな美意識、ある。
しかしそれは、おっかない理想王の覇業を止めるのに一ミリも寄与しなかったし、そりゃあ理想王のように「美しいが無用のものだ」としか言えない。

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それでもそういう負け戦ムーブをしないと我慢ならない? 正直、よう分からん。
現実でバチバチに政策ムーブやると死ぬほど面倒臭くなる。政争ムーブはアツイからまだやってられるが、政策ムーブは基本的に汚い、キツイ、危険な仕事です。まあふつうやりたくねえよ。
そんなことをすると、理想からかけ離れて汚ならしくなるから、理想が理想の純度を保つためには、そんなことは極力やりたくない。と、そういうあれか…?

まあ、そんなわけで、おそらく当面は、色恋沙汰においては、ある程度のロマンティック・ラブ・イデオロギーや、それにつながるエレガントな言い回しからは、逃げられないようです。
ロマンティック・ラブ・イデオロギーを打倒すると言い張る人たち、打倒できてないし、打倒できる見込みが当面ないんだから。
批判している人たちには悪いが、ロマンティック・ラブ・イデオロギーや、それにつながるエレガントな言い回しには、性的愛着と人格的愛着と一夫一妻制の接着剤としての効き目がある。これらの間を比較的シームレスに移行しやすくするし、うまくいけば全部実現するのも比較的容易だ、というメリットがある。
端的に、利用出来るもんは利用するしかない身としては、利用出来るもんは利用する、という話にしかならない。

「それでは既存の弊害のある制度を補強してしまうからダメだっつってんだろバカがクソが」? それは我々の都合ではないので…
「処世や社会に適応出来ない」時に、「処世や社会にナントカ適応する」しかない人、たくさんいるんです。
それを、そんな風に「邪悪なバカな努力家」だの「ゼークト的には銃殺刑にするしかない人」だのとして扱う、そりゃあどう考えても外野を説得なんて出来っこないじゃないですか。少し考えたら…
そういう人は、改革者の中でも、聴衆を罵らずに処世や社会を変えた人にしかついていかない。そこら辺はふつうに慎重です。
まして、聴衆を罵って動員して処世や社会を変えるのに使おうとする改革者、冷静に考えたら何としてもついていきたくないっすよ。そんな他人の理想の都合のためにサクリファイスされろというの、まっぴらごめんですよ…

そんな訳で、私は、聴衆を罵って動員して処世や社会を変えるのに使おうとする改革者、だいぶ冷めた目で見ています。

まあこんなこと言っても、彼らは
「はー? なにさまですかー? 喧嘩売ってきやがってますか? 誰がそんなやつの話聞くかー? バカなのではー?」
となる可能性は高いし、そうなってしまっても何一つしょうがない。
そりゃあそうだ。正しい。そもそも私がそういう記事をここ数日延々と書いているんだから、私だって分かる。
ただ、まあ、少なくとも、「見た」知見としては、そう「見える」んですよ。「伝えられない」かもしれないけど。そういう話しか、今のところは出来ないのよね…私の不徳の為すところですね…

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もう一つ、気を付けるべきことがあります。
そういう即物的に誠実な、そして失礼のないようにした説明を行っても、必ず相手に信じられるという保証なんてない、ということです。
むしろ、まずは念入りにスルーされるでしょう。
これは、まず、そうなる。
だって自分は相手の信頼を「今から」結びたいんだから。じゃあ、「今」、相手からの信頼が自分に足りている訳がない。

だから、何度でも相手から話を信じてもらえないような態度を取られても、それでも何度かやらなきゃならない。
時間がかかる。嫌にもなってくる。

でも、それでも、なおも好意を得たいのならば、それはそうせざるを得なくなるでしょう。

まあ、途中で「やーめた」ってなって、その人から好かれるための努力を全部放棄した方が、ぶっちゃけなんぼか楽です。
そこは、本当に、「それでも好かれたい」ほどの何らかの魅力があるなら、なおも続ければいいし、そうでないならやめたらいい。好きにしましょう。
人間関係は相手のいることだが、自分の側に余程の都合があるのなら、それはそうすればええねん。人間関係は自分もいることなんだから。

5.褒めるという行為が効かないとき

今までの話とはさらに別に、褒めるという行為が効かないことがあります。
ザッと2パターン考えられます。

魅力だけ褒めて、才能も努力も当然のごとく一顧だにしない、成果の上澄みだけ盗み飲みする人々を見ると、忌々しさの余り舌打ちしたくもなることがあります。
これは、忌まわしい努力の末、成果までもが忌まわしくなる、という褒められる側の心の機微の話とは、やや違うものです。
そうではなく、「盗人猛々しい人に褒められるのが嫌だ、あいつらは盗むためにおだてている、それに乗るのが忌々しい」という、褒める側の評価の問題です。

褒めて相手の好意や信頼を得られたらたいへん嬉しい、という話をずっとしてきました。
しかし、そもそも褒められる側からして、褒める側の心証自体が既に悪いと、
「褒めるのは好意のやりとりのためではなく、単に成果を盗みたいという下心があるからやっているのだ。汚らしい」
となり、好意を得たり信頼を結んだりする以前の話として、まずは敵意や不信感を払拭しなければならなくなります。
これは、たいへんに、無駄な労力になります。気をつけて避けていれば、やらなくてよかったはずのことです。

このパターンにならないために、心証の悪くなるような褒め方は避けねばならない。
相手の嬉しさや舌打ちを無視した褒め方は、心証が悪くなる。という話はこの前しました。
そして、今回、目に見えるところだけ褒めて、実際にコストの一番かかっている、一番報われたいところを褒めないというのも、だいぶ心証が悪くなるケースがある。という話をしています。

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もう1つ。
かなり言いたくないことですが、今まで魅力の話をあらかじめしていました。これには理由があります。
何かというと、魅力のない人が他人を褒めると、褒める効果にデバフがかかり、舌打ちと白けの頻度が上がり、そのうち好意どころか敵意を抱かれる。
そういう理不尽な成り行きが、実はしばしばあるのだ、ということです。
だからこそ、褒める側が、褒め言葉を素直に受け取ってもらえるように、それなりに魅力的になっていなければならないのです。
そんなこと言っても、こんなの理不尽に決まっとるのだが、そんなこと言ってもこの仕組みは当面変わらないだろう。じゃあ、しょうがないっすね。

(続きは、また明日)

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