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随筆(2020/11/16):「自分と世界」「自分たちとあいつら」ではなく「自分と一人ひとり」「自分たちといろんな人たち」であることに気をつける

0.昨日はいい一日だった

昨日は一日のびのびと過ごしていました。(読書とかランニングとかしていましたの意味)

365日連続投稿チャレンジ成功記事でも書きましたが、日付の下1桁が1か6の日に、記事を書こうと思います。

まだ記事として書くべきことはいくらでもある。

1.「自分と世界」「自分たちと彼ら」という世界観

しばしば、「自分と世界」「自分たちと彼ら」という世界観で生きている人たちがいる。(ヘッダ画像で言うと左の「自|他」のモデル)

2.それは、「自分と世界が切り離せない」「自分たちと彼らの違いが分からない」という世界観よりは、建設的である

これはシンプルな世界観で、しかも「自分と世界が切り離せない」「自分たちと彼らの違いが分からない」というのよりは建設的だ。

たいてい「自分と世界が切り離せない」「自分たちと彼らの違いが分からない」ことによって、自分の都合を何も考えずに他人に押し付けたり、他人の言いなりになったりするんだからな。

そういうので社交や処世をやったら、まあ揉めるだろうし、最悪誰かにリソース吐き出させられてダシガラになったら捨てられて死ぬ訳だ。

3.「自分と世界」「自分たちと彼ら」という世界観の、どの辺が建設的であるか

「自分と世界」という物の見方は、ごくふつうに受け入れられている。私もふつうにこれでやってきた。

また、個人の生活を越えて、社交や処世というレベルでは、「仲間内とその外」、つまり「自分たちと彼ら」という話も、ごくふつうに出て来るだろう。

また、やや面倒な話になると、政治学者としてのカール・シュミットの「友-敵理論」は、「自分たちと彼ら」ということと切り離せない。

これは政争の元だから、避ける人がいるが、つまりは政争が起きた時にお手上げになるということだ。私には、それがいいとは、ちょっと思えないな。

4.「自分と一人ひとり」「自分たちといろんな人たち」という世界観の方が、より建設的である

で、これに慣れてきたら、このモデルでは物足りなくなる。

もうちょっとリアルな話をすると、「自分と世界」「自分たちと彼ら」ではなく、「自分と一人ひとり」「自分たちといろんな人たち」である訳だ。(ヘッダ画像で言うと右の複数の円のモデル)

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第三のモデルには内外モデルとは大きな違いがある。

社交や処世の「友-敵理論」の話をすると、実際には、他人Aと他人Bが特に裏で手を組んで自分を陥れようとしている訳ではない。

そういうことがあるかないかは、場合によるとしか言えない。

第三のモデルは、そういう現実を表すのに適している。

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「自分たちと彼ら」という内外モデルだと、「自分以外は常に共謀結託して敵に回っている」という前提を採用しがちだ。

だが、冷静に考えると、同じモデルを採用している他人にとっては、「自分」と「当の他人」と「赤の他人」がいたとき、「自分」と「赤の他人」は共に外の存在だということになる。

で、「当の他人」にとっては、「赤の他人」と結託しているという意識などないはずだ。そらそうよ。外の存在なんだもんな。

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内外モデルは、自分が特別だったらそうだろうが、実際には当の他人にとっては、自分は「特別な外の存在」でも何でもない、「ただの十把一絡げの外の存在」でしかない。

内外モデルは、自分の視点で考えたらそうだろうが、視点を変えると第三のモデルに化けざるを得ない。ここが大きなポイントだ。

5.「自分と一人ひとり」「自分たちといろんな人たち」という世界観「以外」を採用している人相手に、それでも社交や処世をしなければならない

もちろん、自他の区別がつかない曖昧モデルや、内外モデルを採用している人もいる。

それは、

・自分はその世界観の旨味を逃さず、

・とはいえそういう人たちのことをわざわざ説得せず(たいていそれにはものすごいコストがかかり、しかもリターンがそれに見合わない)、

・粛々とその人たちからの実害を減らせるように対策をとり、

・何なら役に立ってもらう(もちろんそこでナメた態度は取らないように気をつけねばならない)。

このくらいしか、やれることは、ないのではないでしょうか。

やっていきましょう。

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