「未来」の喪失

情報通信技術の発達による身体概念の喪失については一つ前の記事の通り。過剰な情報量を流し込まれることによって、脳の情報処理機能が麻痺させられることに慣れてしまった時、人間は「世界」というものを正しく感じることができなくなってしまう。

これはインターネット上の仮想空間を「第二の現実世界」、いや、もはや「新たな現実世界」として捉えるようになってしまうことと言い換えても良い。画面上に表示される文章や画像、ピクセルの集合体に対して、私たちは十分、人間社会のようなものについて感じ取ることができてしまう。現実の世界にあるものと似たことがらを仮想世界に見出すことができてしまう。そうしてひとは同時に二つの世界を扱おうとする。現実世界だけですら、ひとりの人間の身に余る大きさだというのに、どうやって同時に二つの世界を扱うのだろう?

この更新では現実世界の私たちと、私たちを取り巻く社会の機能を通して、時間概念について考える。元となっているのは宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』だ。この本は「ある集団内のひとりとしての自分ではなく、個人がそれぞれ、〈私〉という個性が認められるべきだと主張する社会における民主主義」について論じられている。

第4章「〈私〉時代のデモクラシー」第1節「社会的希望の回復」において、宇野は、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの晩年の著作、『パスカル的省察』を引用し、人生の意味を創出するメカニズムとしての社会について論じている。

ここでは、「自分がいつか死んでしまう」という考えは人間にとって耐えがたく、それによって人間は正当化・承認されることを望むのだとした上で、その「人生の意味」を与えてくれる存在が、神から社会へ移行した、という流れを踏まえている。

 それでは、人間にとってなぜ社会がそれほどの権力をもつのでしょうか。それは、社会がもっとも希少なもの、すなわち、承認、敬意といった人間の存在理由を与えてくれるからです。(中略)
 その際、他者に必要とされているという感覚(中略)こそが、自らの重要性を実感するうえでもっとも有効です。しかしながら、すべての配分の中で、もっとも不均等で、もっとも残酷なのは、この社会的重要性と生きる意味の配分にほかなりません。

宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』

このように、人間は社会というものを通すことで他人と触れ合い、それによって存在理由を得る。そうして人間は社会の恩恵を受け、また互いに恩恵を受け合うための行動を取ることで社会を維持していく。

だが、果たしてこの世界に生きている人間全員が、社会による恩恵を享受できていると言えるのだろうか。現実世界における社会は国家と人間との関係性や、それぞれの個人の身分といったものからできている複雑なシステムだ。私たちはその複雑なシステムから出力されるものを正しく認識できているのか?果たしてそのシステムの機能は正常か?

そしてインターネット上、つまり仮想世界における社会はこれと対照的に、文章等を介したコミュニケーションによる人間関係が大部分を占めている、簡略化されたものなのではなかろうか。仮想世界における経験を通じてでき上がる「社会」観と、現実世界におけるシステムとしての社会との一致度が高くないであろうことは、直感的にも頷けるはずだ。

宇野はブルデューを引用し、次のように続けている。

 人が自らの属する世界に関心をもつのは、その世界に意味と方向性があり、自らもまた過去からの経験によって、その世界のゲームに参加しているという感覚をもつことができるときです。そのようなゲームにおいて、未来を先取りし、願望とチャンスを自分なりにコントロールする力をもってはじめて、人は時間感覚をもつことができます。
 しかしながら、このようなチャンスがある一定水準を下回るようになると、人は未来に対する感覚を失うとブルデューはいいます。

宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』

ここで人の時間感覚は、目の前で行われているゲーム・・・に対する予測から来ているのだとされている。そのためにはゲーム自体がどのようなものなのか、どこに向かうものなのかを理解する必要がある。将棋のルールを知らない者は三手詰めをも解くことはできないだろう。

そうして目の前のゲームに「勝つ」ために、絶え間なく考え続け、自分の行動を決定する。それによって人は、社会の中で自分の目指す場所を見据え、そこに到達するタイミングを「未来」として時間間隔を得る。

だが、このように自分にある願望とチャンスとをコントロールできない/しない人間は「未来」という概念を得ることができない。ブルデューはフランスの荒廃した郊外における調査で、そこに住む人々が持つ無力さと、それによって決して獲得し得ない未来、言い換えると幻想のようなものに囚われている実態を記述している。そこには世界を客観的に捉えること、ゲームとして認識することの欠如があり、そうして社会や世界といったものとの間に隔絶が起こる。

宇野は続けて、ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホの希望論を引用して次のように述べている。

ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホは希望を「まだーない」ものとして規定することで、人間が本質的に未来によって規定されていることを強調しています。(中略)しかしながら、希望はしばしば「宗教的希望」の変種とみなされ、(中略)人々を社会的現実から切り離すものとして捉えられてきました。すなわちそのような希望に囚われた人々は、天国の扉が開くことを待って、現実の変革に対しては受動的な態度をとる傾向があるというのです。

宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』

こうした考え方を踏まえ、宇野はオーストラリアの人類学者ガッサン・ハージの言葉を引用し、「人々を社会的現実へと向かわせる希望を配分しているのは社会そのものであり、そこにある不均等を分析すべきである」と述べた上で、現代の社会に対する批判の流れをつくる。

ここで私が注目したのは、受動的な希望とは先述した幻想に近い概念なのではないかということだ。その「宗教的希望」*に対して、個人の分析や論理的な思考、言い換えるならばゲームについての理解というものはない。ただ、「こうだったらいいな」とぼんやり考える程度のことなのだ。

(*ここでは恐らく、「宗教を信仰することで救われる」という希望そのものではなく、そういった根拠のないものすべてを含めて「宗教的」と表現している。)

この論に続いて行われる現代社会への批判にも頷ける部分は多いが、ここで私の意見の結論付けを行いたい。

仮想世界における情報の濁流によって、私たちの情報処理機能は麻痺し、世界について考える能力は奪われる。世界について正しい理解が行われなくなった時、そこには能動的な希望や未来といったものは存在しない。なぜなら、自分自身にある願望やチャンスといったものを適切にコントロールする能力自体が欠如しているからだ。

いかに現実社会が良くなろうとも、情報空間において流され続ける限り、そこに未来はない。全ての不具合の原因は社会でも、政府でも、インターネットそのものでもない。情報の「量」だ。空間認識能力を、時間感覚を、世界についてのあらゆる感覚を取り戻すには、取り込む情報の「量」をコントロールすることから始めなければいけないのだ。

この結論を考える時私は、インターネットがこれほど広く普及するのはまだ早かったのではないかとすら思う。情報通信技術は遠く離れた地域同士でも素早い情報交換ができる点で、確かにこれ以上ないほどの恩恵をもたらしてくれるものではある。だが私たちはその技術に基づくサービスにのめり込むことで、現実世界と仮想世界の二つの世界を同時に扱おうとし、大抵そのどちらもに失敗するどころか、自身の感覚すら完全に奪われようとしている。

この負のループから抜け出すには、自分の手で舵を取るしかない。幻想と憎悪とが混在する急流から抜け出すために、一度岸へと上がらねばならない。それは辛く苦しい道のりになるかもしれないが、私たちはそうするしかない。ループの先に未来はないのだから。


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