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自分の人生は自分次第

私は毒親生まれ機能不全家族育ちだが、それを乗り越えることができた。こういった話をすると「毒親といってもマシなほうだったのでは」とか「本当にひどい虐待を受けた人は乗り越えるのが難しい」とかなんとか言われることもあるが、いちいち比較する人間の気が知れない。私が体験した傷の深さは外側からでは測れない以上、とやかく言われる筋合いはない。

私の愚痴はさておき、自分の人生を「良いもの」にするのか「悪いもの」にするのかは、本人次第なのだなぁとつくづく感じている。というのも、同じ環境で育ったはずの兄はいまだに困難を乗り越えられておらず、今も自分自身の問題と向き合えないままに、不幸な日々を送っているからだ。ここ数年近い場所から見守ってはいるが、彼は悲しいほどに私の話を聞き入れない。衝突し説得をする機会もあったが、向こうは感情的になるだけで、対話すらままならなかった。それっきりもう口出しをするのは控えている。残念ながら彼は「不幸をやめること」に、興味がないようなのだ。

不幸な人間の特徴として「他人のせい」や「環境のせい」にする、といったものがある。自分の行動や選択に責任を持てないために、不自由な舵取りをし、不都合があれば「そうさせた何かのせい」にする。これをやめない限り、連続する不幸から抜け出すことはできないが、その仕組みを知っても態度を改めない者は少なくない。そういった人たちに関して私は「不幸をやめたくないのだろう」と感じている。彼らにとって、誰かや何かのせいにして生きることは目的ではなく手段であり、その目的といえば「不幸であり続けること」「苦しみを体験すること」なのだと、最近では発想を逆転させるようにしている。彼らのそれは、自分で仕向けた行為。無意識の選択とはいえ、望んだ世界が叶い続けている、「不幸せそうで何よりです」ということでしかない。

そもそもの「不幸をやめられない理由」は個々人によるが、それは当人も分かっていないケースがほとんどではないだろうか。心の奥底に向き合うことのできない傷があり、それが無意識の領域に染み渡り、思考や行動に反映されてしまう。当然、その傷を見つけられるのは自分自身だけ。傷を放置し不幸であり続ける人生を生きるか。それとも、傷と向き合うことで無意識を上書きし、幸福な人生を生き始めるか。それは本人にしか選べないことだ。

二月八日 戸部井