『推し、燃ゆ』から考える「発達障害」
放送大学の面接授業「発達障害の理解と対応」を受講した。私は発達障害について元々関心があり、関連する本を何冊も読んでいたが、授業として学ぶことで改めて理解を深めることができた。
授業を受ける中、私はとある小説を思い出す。宇佐見りん著『推し、燃ゆ』は、そのタイトルだけでも知っている人は多いだろう。主人公である「あかり」は、アイドルを熱心においかけるごく普通の女子高生…ではない。「推しの炎上」という強烈なインパクトを与えるモチーフによって見え隠れしているが、この作品の本質は、「見えない何か」に集約されている。
【見えない障害・目に映りにくい病理】
あかりの行動や言動は、読み手に何らかののヒントを与える。それは「バイト先で柔軟な接客ができない」「漢字をいくら書いても覚えられない」「深刻なまでに身の回りの整理ができない」などだ。あかりのそれは不器用な子・適応が苦手な子という次元をはるかに凌駕しており「わかる人にはわかる」という図式を描く。あかりの特性に対しては診断名が二つあるらしいのだが、物語の中で明言されることは最後までない。恐らく「ASD(自閉症スペクトラム症)」や「LD(学習障害)」と予想することができるが、あかり自身の診断名や症状内容は、この物語においては軽視され続ける。
「アイドルに心酔し、日常生活を疎かにしてしまう」という行動はあくまで結果にしか過ぎず、そうさせる背景に注力しなくてはならない。あかりが漠然と抱く「生きづらさ」や「苦しさ」は、発達の特性そのものに問題があるわけではなく、身近な存在である家族の理解や配慮、援助を一切受けられないことにある。批判的で高圧的な母や、悲観し感情をぶつけてくる姉、物事を合理的に進めようとし寄り添うことのできない父など、あかりを取り巻く環境は地獄である。目に見えない困難を家族は理解しようとせず、自分の方が苦労している、といった口ぶりであかりを批難する。物語の中盤であかりは学校に通えなくなり、高校を中退。その後一人暮らしを始めるが働くこともままならず、その上「もう仕送りはできない」「ちゃんとしよう」などと表面的な言葉だけで突き放される。あかりの家族が取り続ける行動は、建設的な「自立支援」とはいえない。あかり自ら自身の診断名を理由に「できないんだよ」と声を上げても「またその(障害)のせいにするんだ」と批難される。これは、【歩行が困難な家族に「ちゃんと歩け」「怠けるな」と叱責し続け、杖も歩行器も与えない】といった状況だ。
元々そういった不安定な環境にあり、生きることに疲弊していたあかりにとって「推し」が唯一の希望であった。あかりは推しを洞察し、言語化することで本来持っている「才能」を発揮する。その日常があること、推しの存在があることで、苦痛にまみれた人生をなんとかやり過ごすことができていたのだが、推しの炎上を機にバランスは崩れ、あかりを取り巻く環境や、あかり自身の心身は崩壊しはじめてしまう。
あかりの診断名が語られないことで、「見えない人には見えない」という、発達障害を持つ者が抱くジレンマを、見事に表現していると感じる。なにも、作中に出てくる人物の全てがあかりに辛辣なわけではない。学校の先生は探りながらあかりの困難を聞き出そうとしているし、バイト先の店主も言葉を選んで接してくれている。表面的な部分しか見ずにあかりをとやかく言う者もいるが、これは発達障害を抱えていなくても経験することの一部ともいえる。問題はやはり、本来サポートすべき家族が適切な手助けをできないことにある。ここにこの物語の「見えない病理」を感じる。オタクだから生きづらいのではない。発達障害があるから生きづらいのではない。あかりが抱く生きづらさの正体は、あかり自身の在り方ではなく、あかりを取り巻く環境にあるのだ。
物語の最後、あかりは片付けることができない部屋の中で感情を露わにする。そして、散らばった物を拾い上げ「これが私の生きる姿勢」と考える。部屋中に広がる困難を、一緒に拾い上げてくれる人はいない。なんの救いもない物語の終焉にやるせなさや憤りを覚えた読者も多いかもしれないが、救いようもない世界を生きている人間は現実に多く存在している。あかりは、架空の人物ではない。どこにでもいる。私たちに見えていない、もしくは、私たちが見ていないだけで、この世界を這いつくばっているのだ。
『推し、燃ゆ』において、「アイドル」や「推し文化」はあくまで表層であり、本質は「見えない病理」や「家族間の不和」などの、現代的な社会問題がテーマにあると考える。
私は小説や文学についての造詣はないが、この『推し、燃ゆ』という作品は、文学として高い価値を持っていると感じている。読んだ者へ課題提起ができる作品は、これからも多くの人に読まれ続けるだろう。
五月十三日 戸部井