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邦人作曲家シリーズvol.18:足立智美

邦人作曲家シリーズとは
タワーレコードが日本に上陸したのが、1979年。米国タワーレコードの一事業部として輸入盤を取り扱っていました。アメリカ本国には、「PULSE!」というフリーマガジンがあり、日本にも「bounce」がありました。日本のタワーレコードがクラシック商品を取り扱うことになり、生れたのが「musée」です。1996年のことです。すでに店頭には、現代音楽、実験音楽、エレクトロ、アンビエント、サウンドアートなどなどの作家の作品を集めて陳列するコーナーがありました。CDや本は、作家名順に並べられていましたが、必ず、誰かにとって??となる名前がありました。そこで「musée」の誌上に、作家を紹介して、あらゆる名前の秘密を解き明かせずとも、どのような音楽を作っているアーティストの作品、CDが並べられているのか、その手がかりとなる連載を始めました。それがきっかけで始まった「邦人作曲家シリーズ」です。いまではすっかりその制作スタイルや、制作の現場が変わったアーティストもいらっしゃいますが、あらためてこの日本における音楽制作のパースペクティブを再考するためにも、アーカイブを公開することに一定の意味があると考えました。ご理解、ご協力いただきましたすべてのアーティストに感謝いたします。
*1997年5月(musée vol.7)~2001年7月(musée vol.32)に掲載されたものを転載

 美しさから遠く離れて〜しかしあなたへ向けて

WORDS/足立智美
*musée 2000年9月20日(#27)掲載

20アダチトモミ

◆コミュニケーションについて

──CDを聴いたけど随分いろんな要素が入っているね。散漫な印象を受けるくらいだ。スタイルを横断するのが主眼なのかな。

「ここ2〜3年ソロでやってきたことをまとめたからね。でもスタイルの横断が目的なわけじゃない。コミュニケーションの回路を模索することがこうなったんだ」

──コミュニケーションというのは何だ。音楽で何かを伝えるということか?

「コミュニケーションは伝えるべきメッセージがあって、それをメディアに載せるというものじゃない。そんな一方的なものじゃないんだ。あえていうならコミュニケーションは人と人の間に生じる何かだ。だから誰にも聴かれない音楽は音楽じゃない」

——聴き手が自由に意味を見いだすということかな。

「悪いけどそれもまた違うね。音楽に意味なんかない。別にニヒリズムになっているわけではないよ。音楽の経験というのは具体的な何かなんだ。抽象的な“意味”じゃない。この“何か”を他の言葉で言い表せないから難しくなってしまうけど。だから感情だとか思想だとかを伝えるわけではない、音楽的構造を聴いてくれといっているわけでもない、でも他者に聴かれてこそ音楽だ。このことが分かってくれればいい」

◆方法について

——最初から随分本質的な話だな。では具体的な方法について。たぶんほとんどの曲が即興といっていいものだと思うのだけど、作曲家という呼ばれ方についてどう思う?この欄は『邦人作曲家』だし。

「確かに楽譜になっているようなものはほとんどない。でも純粋な即興もほとんどないよ。僕はエレクトロニクスを使うから、機材の組み合わせがほとんど作曲のようなものだ。だいたい現代のテクノロジー ---といっても僕が使っているのは本当に安いものばかりだけど--- のテクニックを記譜するなんて馬鹿らしくてやっていられないよ。それに単純なアイデア、コンセプトだけを決めて後は音を実際に聴きながら一発録りという方が面白いものができる。自分でいうのもなんだけど繰り返しのきかない荒削りなものが好きなんだ」

——それじゃ楽器を作るのも作曲なのか?

「広い意味ではそういえるかもしれない。楽器を作るということはそれに伴う身体技法も一緒に作り上げることになるからね。コンセプトがハードウェアになっているわけだ。でも楽器を作る最大の理由はね、自分にとって使いよい楽器がなかなかないんだよ。特に電子楽器の場合、メーカーが流行と認めないような使い方はなかなかできない。重いし高いしインターフェイスは厄介だ。そういうものを否定しても仕方ないけど、違う可能性もあるんだ。自分に必要な機能だけなら作った方が安いんだよ。おかげで随分勉強になった。秋葉原の裏通りにも詳しくなったしね」

——経済的な要因が大きいみたいだな。声についてもそういうこと?それとも特別な関心があるのかな?

「そう、経済的な利点は大きいね。声帯はほとんどの人が持っているし何より軽い。なにひとつ持って行かなくてもライヴができるというのは素晴らしいよ。付け加えればね、声というのは技術的にまだまだ探求されていないんだ。ピアノとかヴァイオリンだったら大概の奏法は現代音楽の世界で研究され尽くされているけど、声というのはそれほどでもない。そういう人たちはベル・カントを前提にしているし、記譜しづらいからなんだろうけど。それに観客から見るとね、声を出してる人の顔が大概一番面白い」

——それで音響詩みたいなこともやっているわけだ。

「ヴォイス・パフォーマーにとっては唯一の伝統だろうね。フーゴー・バルから始まって中ザワヒデキまでもう100年近く続いている。あまり知られていない分野だけど豊かな歴史を持っている。言葉と音楽の“間”ということにとても興味があるんだ。だからこのCDでは言葉をシステマティックに扱ったりしている」

——エレクトロニクスについてはどうだろう。音色の拡張かな?

「いや、それなら生声だけの方がいいよ。エフェクターは音を均質化してしまう。僕がエレクトロニクスを使うのは、そうだね、例えば声をディレイに通すだろ。そうすると遅れて聞こえる音は私の音ではないんだ。それはその時、頭骨に響いている音とは違う。そうやって意識を音から引き離していく。一方では自分を拡張していくんだけど、もう一方で自分を消していく」

——でもエレクトロニクスだけの演奏もあるね。音響系というか。

「それは確かに少し違っていて、電気の生音なんだ。電子回路のアウトプットをもう一度インプットに入れる。フィードバック、いわゆるハウリングの原理なんだけど。で、そのループの中でちょっと位相をいじればいろんな音がでる。これは音響合成やサンプリングとは違って電子回路自体の発振音なんだ。まあデイヴィッド・テュードアの電子音というのはほとんどこれだし、メルツバウもそうだと思う。電子音楽の祖、ヘルベルト・アイメルトも使っていた。こうやって生じるビートというのは繰り返しなのに同じ反復は一つもない。単純なシステムでとても複雑なことができる。でもいわゆる音響派とは違うと思う。僕は音そのものの質には興味がないからね」

◆理性について

——音の好き嫌いはないのかい?

「好き嫌いはもちろんある。特定の響きに魅せられることもあるし、それが選択基準になることだってある。でもマニエリズムは嫌だね。あくまでコンセプトが第一だ。まあ理性中心主義者だから」

——随分反動的な立場じゃないか。

「ほとんど反動的なことは認めるよ。でもそれは相対主義の暴力を克服するために必要なんだ。あれもいい、これもいいではどれも駄目と遠回しにいっているのと同じだ。これが80年代の状況だとすれば、90年代は感性や生理で相対主義を克服する時代だった。でもそれでは他者への回路が持てない。感性の共有なんてろくでもない共同体の幻影を見せるだけだろう?時代は反映しているのだろうけど、反映してどうなる?相対主義の方がまだましだと思うよ」

——それじゃ21世紀の始まりは理性主義だとでもいうのかい?

「いや、僕は予言者じゃないし未来の展望を示すことにも関心がない。別に相対主義を克服して新しい価値基準を作ろうというわけじゃないよ。それじゃどこやらの保守主義者とまるで一緒じゃないか。それはバランスの問題なんだ。批判といってもいい。理性主義は今、僕にとって必要な武器なんだ。でも信奉者じゃない。単一の方法論で通さないのはそのためだ。さっき君は“スタイルの横断”といったね。さまざまなスタイルを用いるのは理性でスタイルをその思想から引き離して現実に有効なものにする試みなんだ」

——音楽は理性の営みなのかい?では音楽の面白さってなんだろう?

「そう、理性の営みだと今のところは言いたいよ。でも“面白さ”は何なのか分からない。自分だって“面白さ”を理性と別の所で理解している気がする。でももちろん“面白さ”は理性とは矛盾しないよ。美学的に解明できないだけだ」

——心理学的に解明するっていう考えもある。

「解明されたらきっとそれは“面白く”ないんだろうな。まあ論理的言説の範疇ではないということじゃないの。でも“面白い”音楽は作れてるつもりだよ」

——君の場合、“面白さ”って笑いなんじゃないのか。

「一時期はそう考えていたこともある。“笑い”は論理的範疇に属する唯一の“面白さ”だろうからね。でもそれだけやっているわけにもいかないね」

◆流通について

——しかし足立智美ってパフォーマンスのイメージが強いんだけどCDにしたのは?

「恥ずかしいことだけどパフォーマンスだとどうしてもインパクトを持たせようとしてしまいがちだ。でも録音なら微細な音も聴かせられる。それにパフォーマンスではこれほどいろんな要素は出せないね。気持ちの上では録音してしまえば、つまり“作品”にしてしまえば同じことをもうする必要がない。このCDは自分で出したから本当にやりたいようにできたし」

——でもそれほど売れるものじゃないだろう。

「今の資本主義を否定しても始まらない。その枠内でそれをどう組み替えることができるかが問題なんだ。マス・カルチャーになる必要はない。どっちにしたって大衆芸術なんてもうないんだ。少数でも不特定の人々を相手にしていきたいと思っているからね」 

 (インタヴュアー:足立智美)


■プロフィール
ヴォイス、各種センサー、コンピュータ、自作楽器によるソロ演奏、音響詩、舞台音楽など幅広い領域で活動し、またインスタレーション作家、映像作家としても活動、非音楽家との大規模なアンサンブルのプロジェクトもおこなう。高橋悠治、一柳慧、伊藤キム、坂田明、飯村隆彦、猫ひろしらと共演、テート・モダン、ポンピドゥー・センター、ウォーカーアートセンター等で公演している。
http://www.adachitomomi.com/n/Japanese.html

【CD】
ときめきのゆいぶつろん
足立智美
[naya records naya-0001]
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