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邦人作曲家シリーズvol.12:大友良英(text:高見一樹)

邦人作曲家シリーズとは
タワーレコードが日本に上陸したのが、1979年。米国タワーレコードの一事業部として輸入盤を取り扱っていました。アメリカ本国には、「PULSE!」というフリーマガジンがあり、日本にも「bounce」がありました。日本のタワーレコードがクラシック商品を取り扱うことになり、生れたのが「musée」です。1996年のことです。すでに店頭には、現代音楽、実験音楽、エレクトロ、アンビエント、サウンドアートなどなどの作家の作品を集めて陳列するコーナーがありました。CDや本は、作家名順に並べられていましたが、必ず、誰かにとって??となる名前がありました。そこで「musée」の誌上に、作家を紹介して、あらゆる名前の秘密を解き明かせずとも、どのような音楽を作っているアーティストの作品、CDが並べられているのか、その手がかりとなる連載を始めました。それがきっかけで始まった「邦人作曲家シリーズ」です。いまではすっかりその制作スタイルや、制作の現場が変わったアーティストもいらっしゃいますが、あらためてこの日本における音楽制作のパースペクティブを再考するためにも、アーカイブを公開することに一定の意味があると考えました。ご理解、ご協力いただきましたすべてのアーティストに感謝いたします。
*1997年5月(musée vol.7)~2001年7月(musée vol.32)に掲載されたものを転載

TEXT/高見一樹
*musée 1999年5月20日(#19)掲載

大友良英のグラウンド・ゼロのライブを90年に大阪心斎橋でみた。ほぼ同じ時期、アルタード・ステーツのライブを、同じ場所で聴いている。ホッピー神山が主催したレーベル、ゴッド・マウンテンの立ち上げ、の頃だった。何か始まりつつある感じと、何かがもう終わったことを徹底的に確認するために、あの頃、聴いたのが彼らの音楽だった。それ以来、クリスチャン・マークレイ、ジョン・ゾーン、アート・リンゼイ、大友良英……、の名前は、忘れようと努めても記憶から消せないくらいに、何度も口に、耳に、目にしてきた。99年2月、高橋悠治、高田和子、田中悠美子、石川高、西陽子、神田佳子ら、邦楽器を演奏するバンド『糸』のデビューコンサートで、このバンドが大友良英の作品「極小の記憶no.2」を演奏した。このときすでに、グラウンドゼロは解散し、I.S.O.というアンサンブルが、彼の新しい現場となっていた。

「グラウンドゼロは、僕の曲を、僕のわがままでやってもらうという、もちろんアーティストの裁量でできあがる部分も沢山あったけれど、従来の作曲とおなじように世界観みたいなものは僕が作っていた。でも世界を自分ひとりで作ることに今は興味がなくて。『糸』の作品やI.S.O.はそうした中で生まれてるんです。I.S.O.は三人対等のユニットだし…。」

                                              (一)80'Sの追憶

 情報を差別化するのではなく、差異化するあのやりかたに、やられた。どんな情報もいったん等価値にならべ聴き手の選択に委ねるという態度は、どんな音楽でもそれなりに興味深い対象なのだという、ある超然とした聞き方を増長させた。

「80年代のポストモダンのときに質がとわれなくなった。相対的にものを見ていく視点はよかったんだけれど。それがスピードと消費の中でなされてしまったのが大問題で、消費していくことですべてがイコールになるんだったら資本主義を無反省に受け入れただけ。音楽もそうなっていて、今もその延長線上だよね。質をちゃんと見たいんだ。でもだからといって、自分に関わる情報を全て把握することなんて無理でしょ。音楽にしてもすべての音楽史の延長線上になにかをつくるなんて幻想でしかなくて、人間の頭脳を越えた作業だよ。かつて情報がかぎられていた時代には西欧のクラシックの中から現代音楽がでてくるという類の進化論的ヒストリーの中で物語が進行したけど、今はもう世界規模で情報が飽和点をはるかに越えていて、縦軸の歴史観って都合のよい情報だけを選択する捏造でしかない。そんな中で何を選択して、何をどう提出するのかというのが、演奏しているひとにとっても、書き手も、レコード屋さんにしても、そして聞き手に問われている。」

                                      (二)情報の量と質とコラージュと

 パソコンの普及によってさらに、情報の量とその処理速度や方法への関心が増大し、音楽においては、たとえばコラージュ/サンプリングという古くからあった音楽のテクニックや、切ったり繋いだりする映画的技術による素材/情報の加工/操作、への関心を蘇生させ、80年代の後半、クリスチャン・マークレイや大友良英といったアーティストに対する興味を肥大させた。 彼らが再生装置であるレコード・プレイヤーを楽器として使ったのは、ケージのイマジナリー・ランド・スケープのピッチ可変音響発生装置というやり方や、ミュージック・コンクレートのレコード盤を分割し張り合わせる編集のやり方にまで立ち戻って学習し、楽器としてその奏法も含め鍛え直すというより、現場での即効性が、すべての可能性に優先したからだった。しかしマークレイの場合、造形作家としての活動のある部分に派生して音楽という制作の現場があったというに過ぎないようにも思える。

 大友は、ターンテーブルを使う以前にも、テープを使いノイズをコラージュした作品を試しているが、現在に過去を重ねることのできるメディアとして、あるいは予定調和的な展開を誘う非常に安定した時間軸へのテロを仕掛ける武器として、ターンテーブルやレコードに注目していただろう。ゆえに具体的な場面で選んだ音響の実効性に気を使っていただろうし、だから何をのせて鳴らすのかにこだわっていたと、思う。

「例えばね、ちょっと古い人の考えかただと、五音階しか使わない童謡のメロディは低俗で、12音音階は高級という、差別みたいのがあるでしょ。直接その人に聞いてもそうだとは言わないんだけど(笑)。その人の作風を聴けば絶対あるんだ、そういう差別が。普通のポップスよりアバンギャルドが優れてるとかね。無論僕にもそういう部分はあるんだけれど、同時にそういう感覚に異和感がずっとあって。映画の現場で学んだのかもしれないけど、あるシーンに対して何が効果的かというのは、もしかしたら、ウエーベルンの音楽がよかったり、すげえ音痴なオヤジがカラオケで歌うほうが、シーンを際立たせることもあるわけで、その場面においてどっちの音楽のほうがすぐれているというのはいえない。そうなると音楽の価値は相対的なもんでしょ。音楽が作者の考えを実現する表現方法だって考えると、作品ひとつひとつの持つ価値ってのがでてくるとおうものだけれど、でもある時音楽は音楽だけで自立してるんじゃないんだなあって気がついた時に“聴く”人の存在が作り手と対等だってことに気づいて、そうなるとね、今までの音楽は、音楽の価値を作り手の基準で決めてきたんじゃないかって思って…。ターンテーブルをやっているとちょうど作り手と聴き手の中間の位置にいながら作品を作っているような感じで、今まで高級と思いこんでた音楽以外の価値もだんだん見えてきたし、実際にコラージュの現場ではそれまでの音楽の価値観とは別の価値観で一枚一枚のレコードと付き合うことになったのがいい経験になった。たぶんこういう考え方になったのはターンテーブルの特質とともに、やはり80年代のポストモダン的な考え方も影響していると思う。ポストモダンにもいい部分たくさんあったと思うんだ。ただ。いろんなもんを並列にして一個一個の質は問わずに、がーっとコラージュしていくやりかたの中で、質とか聴くことの視点が忘れられてしまったんだと思う。今は別に同時になんでもミックスしなくてもいいと思ってて、もっと一つ一つの現象の質を丁寧に見たいんだ。情報が沢山あればいいってもんじゃなくて、重要なのは情報の質とそれがどうネットワークしているのかを大風呂敷にならずに個人の手の届く範囲で丁寧に見たいってことなんだ。」

                                          (三) 90'Sとパリ・ペキン

 90年代のあるとき、それはギャラリーのように音楽を集めて売るショップ「パリ・ペキン」がはじまって加速された音楽のある状況変化に端を発している。彼らは聴きたいものを集め、売るという行為で、彼らの聴きたい音楽を伝えたが、起点をパリ・ペキンにもとめることのできるあるいくつかの音楽の運動があって、それは、『音響系』という彼らがなづけたセリ−によって、90年代を遡行し、さらにこれまでの音楽史が無視した音楽的実践を、歴史化した。

「80年代のポストモダーンが終わってさぁ、バブルがはじけてすべてを消費しつくしたという、バブルもイヤな時代だったけど、そのあともろくでもなかった。パリ・ペキンができたときは本当にうれしかった。あそこからいろんな人がいっぱいでてきたでしょ。僕の目から見てもすごく面白い出来事だった。あのへんの人たちの動きにはもろに影響を受けた。海外だとジム・オルークとかね。池田亮司も最初聴いたときはとてもショックだった。なんか自分の駄目なところが逆に見えるようでね。永田一直のゼログラヴィティや佐々木敦がはじめたmemeも素晴らしい。個人的には、もう生理の部分でああいう音にがーっとむかってしまったって感じかな。」

                                         (四)LATE 90'Sのこれから

「音楽家ってどう演奏するかってことをずっと考えてきたし、作曲家はどう演奏させるかを考えてきたじゃない。でもどう聴くかってことを考えたいんだ。」

 一楽儀光・松原幸子・大友良英によるI.S.O.は、オルークや池田に感じた方向を走り始めているのだろう。三者がそれぞれの場所から音を聴いて、響き合っている。ロンドンからこのユニットの2枚目がリリースされているし、すでに次も用意されている、という。『糸』というこれまた、すごい現場が出来上がったわけだが、作曲家としての大友はこれから、こうした現場を通じてどうなっていくのか。

「悠治さんの聴く姿勢はすごく好きなんだ。『糸』で使う楽器みせてもらったんだけど、これから勉強したんでは、インスタントな付け焼き刃になっちゃう(笑)。それで、古典の楽器で、古典の奏法のことを考えてつくるよりは、いつも自分がレコードでコラージュしてやってるようにやればいいやというのがあって。クラシックのひととか現代音楽のひとって伝統を尊重して、その方法と現代音楽の方法を混ぜようとしがちだよね。それはいいんだけど、楽器を白紙にもどすんならもどすやり方があるし、古典的な奏法だったら古典でもいいと思っているんだよね。だから素朴に楽器から出る音だけで、あまり重い歴史のある演奏法に縛られずになにか出来ないかなとおもって作ったのがあの曲なんだ。例えば笙の石川さんとは前からずいぶん仕事をしているけど、笙は僕にとって新しい楽器というか、シンセのような、なんていうだろう。笙って歴史のある楽器かもしれないけど、僕の家族の歴史にはあんなもんないので(笑)。だから逆に自由に、はじめてシンセを触れたときのように曲を書いてもいいと思って。で笙のために一曲書いた。松原幸子にサインウエーブで笙とまったく同じ音程をだしてもらって、サインウエーブの音程を少しずらすと、音が揺れる、それだけで一曲つくったんすよ。演奏でヴァイブレーション作ったり、肉体的な方法で音を動かすのではなく、本当に純粋に音の反応だけで音を揺らしたり、シーンが変わってくるというのをつくってみたかったんです。だからスタジオで聴く揺れ方と、家で聴くのとでもちがっていて、ヘッドフォンで聴いても全然違う世界になる。作り手が音楽を用意するんじゃなくて、聴く方のなかに音楽があれば自然に響くもののような気がしてるんだ。」


■プロフィール
1959年横浜生れ。十代を福島市で過ごす。常に同時進行かつインディペンデントに即興演奏やノイズ的な作品からポップスに至るまで多種多様な音楽をつくり続け、その活動範囲は世界中におよぶ。映画音楽家としても数多くの映像作品の音楽を手がけ、その数は100作品を超える。
http://otomoyoshihide.com/


I.S.O.
ICHIHARU YOSHIMITSU: ELECTRONICS
SACHIKO M: SAMPLER WITH SINE WAVE
OTOMO YOSHIHIDE: RECORDS AND CDS
[ALCOHOL ALSOCD]



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