「自閉」の可能性をめぐって(3/3)
6 . 「繭化体」と「独身者の機械」
「他者たちとの直接的な関係性や社会的集団性への積極的なコミットメントを忌避して、自己への閉鎖を、あるいはなんらかの限定的な対象との対関係への閉鎖を指向する態度を示す」(天野、 1 9 8 6 、 p . 1 1 3 )という点でこの二つは共通しているが、ここまで見てきた通りそこへ向かう動機とその表れには差異が存在する。
他者との関係に伴う不協和を敏感に感じ取るために、その苦痛が存在しない局所的な閉域への閉じこもりを望むのが「繭化体」であり、他者との関係において発生する関係の固定化、すなわち自分にとって相手がなんであり、相手にとって自分がなんであるかということが規定されてしまうことを耐え難く感じるゆえに孤立を志向するのが「独身者の機械」だ。以後、二つの自閉へと向かう欲望の在り方を明快にし、それがどのように新しい政治・社会運動のための思想となり得るかを考察したい。
「繭化体」とは文字通り、自己を繭のような閉域に後退させ、他者性を拒絶しようとする主体のことである。前述の通り、それは他者との交わりの中で生まれる不協和から逃れるために志向されるが、現代社会での生存は他者との共生を意味する。
よって、その拒絶は必然的に社会参加からの逃走を意味するが、おおよその場合、それは何らかの限られた特権的な対象 ( 家族や友人、恋人といった限られた他者、あるいはぬいぐるみや人形、または想像上の存在など ) のみとの同質的な関係を形成する。
相手が人間であればその他者性を排除していくことで、無機物や想像上の存在であればそこに自己を重ねることでその関係は結ばれるが、このような在り方へと向かう欲望は、非生産的であり反労働・反社会的な性格を持つ。
現代社会への適応条件には共働的な労働への従事や生産性を持つことが求められ、そのためには競争意識や上昇志向を必要とするが、彼らはそのような欲望を持たない。彼らは、そのような外部に働きかけることで得られる充足への関心は極めて淡泊であるが、内的で想像力を用いる充足は積極的に求める。
それでは「独身者の機械」とはなんだろう。 「繭化体」が同質的な閉鎖空間のみで成立する関係を望む同化への欲望であるのに対して、「独身者の機械」は関係の固定化を拒み、常にアイデンティティを複数に分裂させんとするような異化へと向かう欲望だといえる。しかし、現代社会で生きることはすなわち、なんらかの組織・共同体に属することを強いられ、そこでの役割を引き受けざるを得ない。
会社組織や家族に身を置けば「○○部の課長」「父 / 母」といった何らかの役割を割り振られ、おおよその場合、それを自分の手でそれを取り払うことはできないだろう。 それはまさに「独身者の機械」がもっとも苦痛を感じる事態であり、そこから逃れる唯一の手段として残された組織・共同体から抜けるという選択へと彼らを導く。そうして「独身者の機械」はアイデンティティを固定されることなく、むしろ他者性を無限に混在させるような定まらない自己を持ち続けることが可能になる。
しかし、このように「独身者の機械」であることもまた、「繭化体」と同じく反労働・反社会的な性格を持つ。よって、これらの自閉的な主体は社会の縁で孤立し、非生産的であるゆえに他者の生産に依存して生きるほかなく、そのような在り方は常に他者からの矯正を迫る圧力や、社会道徳的な批難、経済的な不安定性を伴う。
また、自閉的な主体が陥る危機はそのような外部からの脅威によるもののみではない。「繭化体」が望むような同質的な閉域は、容易に視野狭窄や風通しの悪い息詰まりに陥り、「独身者の機械」の、自己を異化し分裂させることで精神的な平穏を保つ営みは破綻と表裏一体である。しかし、自閉化がいかなるリスクを伴おうと彼らはそう生きざるを得ず、またそうあらなければ体感しえない快楽も存在する。ただし、彼らが自閉的な生を選ぶことは、彼ら自身の幸福という利点があるのみならず、社会全体への利点も存在するのではないか、と考えられる。
前述した通り「繭化体」や「独身者の機械」といった主体は競争意識や上昇志向といった欲望を持たず、支配 - 被支配関係の父権的な垂直的社会秩序からの脱落を望む。彼らは生産的な活動や実利的な価値基準によってしか充実しえない現代病的な束縛から自由であり ( この点で、まさにそのような現代病に囚われて個人的な幸福を追及する反面、政治・社会といった大きなものと距離を取る「モラトリアム人間」的な欠点も克服できる ) 、組織・共同体においてそのような欲望を抱く存在は異物となる。
その性格上、異物同士が連帯することはないが、彼らが各所に現れ、点在するようになれば、それは既存の社会秩序がはらむ限界を示し、疑問を呈す端緒となり得るはずだ。このように「繭化体」や「独身者の機械」といった様態で自閉へと向かおうとする特異な欲望は、それを抱き、顕示することがすなわち支配的な秩序や規範への批判的態度となる ( 同、 p p . 1 1 3 - 1 2 7 ) 。
この点にこそ、「自閉主義」が新しい運動の思想として立ち上がり得る最大の契機がある。その運動の主体を「自閉主義者」と呼ぶこととしよう。
ただし、本論文で考える自閉主義者たちの運動は「繭化体」や「独身者の機械」のような様態を今まさに実践している人々に、自らの営みを政治・社会運動の実践として再規定せよと呼びかけるわけでも、「自閉主義」思想の賛同者が「繭化体」や「独身者の機械」のような在り方を実践していくという形で行われるわけではない。
自閉主義者たちを、自閉的な生き方を望み、秩序や規範を問う主体と、そこに「秩序や規範を問う効果」を認め、肯定的に評価する主体の二種類に分ける。仮に、前者を「自閉主義者A」、後者を「自閉主義者B」としよう。自閉主義者A・Bは一体化せず、常に分離しつつ個別に存在しなくてはならない。
「自閉主義」の運動において、社会に対して反秩序的な「欲望」を抱く主体と、それを政治的な「言説」として立ち上がらせる主体は分かたれなければならないのだ。これは前者の「欲望」が、社会や国家、共同体といったものとのデタッチメントを含意するからである。また、自閉主義の運動が、自閉化の実践とイコールではないという点も、ここに拠るものである。
社会規範から外れ、秩序が求めるのとは別の生き方を欲望する自閉主義者Aは、必然的に規範や秩序の担い手から否定される。しかし、彼らの多くは個人を超えた大きなものとの繋がりを意識することを拒むため、そこに正面切って立ち向かうことをしない。しかし、そのままでは彼ら自身が、自らの生き方を否定的に捉えてしまう。それでは、秩序や規範を揺るがすことはできない。そこで要請されるのが、もう片方の自閉主義者Bである。
彼らは必ずしも自閉化を欲望するわけではないが、そのような欲望(とそれを抱く者、すなわち自閉主義者A)を肯定的に捉え、言説化する。社会貢献や社会に対する利益の還元を、社会参加する者に課せられた従うべき規範として考える反自閉主義者たちへの論駁は、自閉主義者Bによって担われる。
この運動が結実すれば、既存の秩序や規範を相対化し、そこに背くような欲望が正当化されていくはずだ。ここで注意したいのは、自閉主義者Bの運動の主眼は「自閉主義者Aを、実際に反秩序・反規範的な生き方を導く」ことに置かれているわけではないということだ。彼らがそのような欲望を抱いてしまう事態こそが、現状の秩序や規範の限界を露呈させているのだということを指摘し、社会に対する問題提起とするのが自閉主義者Bの運動である。
そこにとどまらず、彼らが自閉主義者Aの生き方そのものを反秩序・反規範的な方向に導いた場合、自閉主義者A・Bの運動は瓦解してしまう。自閉主義者Aの欲望は既存の規範や秩序にそぐわないものではあるものの、彼らの生自体はそこに拠ることで成り立っているからである。生き方そのものを変えるような積極的実践ではなく、求められている生き方に否定的な態度表明をするにとどまる消極的実践が先に来なければ、継続的な自閉主義運動は達成できない。
それが達成された暁には規範が相対化され、そこに従わなければ経済的な不利益や社会的な立場で貶められるということはなくなるということもなくなるはずだ。目指すのは規範の撤廃ではない。絶対的とされている規範の相対化なのだ。また、この運動は小此木が「モラトリアム人間」に見出した、社会に対して消極的であるがゆえに国家規模のパニックや価値判断の錯乱に巻き込まれないというメリットも内包するはずだ。少なくとも、自閉主義者Aにはそのようなリスクがないはずである。
また、「欲望」と「言説」の峻別は、 3 . 3 で問題にした「政治・社会運動の主体による「表現」に「ふれる」ことで、言葉を必要とするはずの人々が、そこから離れていってしまう」ケースへのアプローチにもなるのではないだろうか。自閉主義の運動における「欲望」と「言説」は、 3 章で言及した「内容」と「表現」の関係と近い。
旧来の運動においては、表現は内容を伝達するための媒体という位置づけであり、その効果は軽んじられていた。そのことは、運動の外部にいるが、運動が掲げる問題を抱える人々に「この考え方や、こういう感じ方はあの「表現」をする人たち ( 運動家 ) と同じになってしまう」という葛藤を抱かせ、運動から遠退けるおそれがあった。しかし、「欲望」と「言説」、すなわち「内容」と「表現」を担う運動家をそれぞれ峻別することは、この問題の解決を助ける。「自閉主義」の運動は、「自らの ( 反秩序・反規範的な ) 欲望を表明する」だけで実践できるからだ。
それは現実で何かの拍子に口に出す、 S N S に書きこむといった軽いものから、実際に他人との関わりを断つ、働かずに生きることを選ぶといったものまで幅広いが、彼らはそこに含まれる「反秩序・反規範的な政治・社会運動性」を意識せずともすみ、また政治性を帯びた発信をする必要もない。最も簡単な例をあげれば、自閉主義者 A が「仕事をしたくない」「学校に行きたくない」とネットに書き込むことで、自閉主義者 B はそれらの書き込みを肯定的に捉える批評を書き、自閉主義者 A の営みは事後的に政治・社会運動化されるとともに、同じ「欲望」を持つ人々の共感を獲得し、共感者たちは新たな自閉主義者 A となるだろう。
「欲望」の発信と運動の拡大を担う自閉主義者 A と、それを批評することで「言説」化し、思想運動としての飛躍や反対者への論駁を担う自閉主義者 B 。両者が揃って初めて自閉主義は運動化し、社会の秩序や規範の絶対性を問いただす効果を生む。
繰り返すが、自閉主義にもとづく政治・社会運動は「政治や社会といった、個人を超えた大きなものと繋がる」ことなく実践可能である。むしろ、そこから逃れたいという欲望を抱くことが重要なのだ。
こうして、「政治・社会と直接的な繋がりを意識することは回避しつつ、それでも既存の政治・社会へと何らかの影響を及ぼす」というアンビバレントな運動の可能性を見ることができた。
この運動は、既存秩序とその擁護者という力強い敵に対抗すべく、自らも力の担い手となって正面からぶつかり、社会そのものを変革しようとする旧来の政治・社会運動ではなく、既存秩序の支配する社会の中で、秩序が求めるものとは別の生き方を欲望することでそれを可能にしていく、新しい運動の契機を創り出すだろう。
7 . おわりに
本論文では、現代の時代精神に沿った政治・社会運動の新しい可能性を考察してきた。
2章でまず政治・社会運動に対する若年層の受け止めを確認し、 3 章ではその具体的な内容とその弊害、課題を整理した。次に 4 章から 5 章にかけて、その課題の考察のために必要な議論の概略を行い、 6 章では、課題解決のための政治・社会運動の在り方とその意義を考察し、最終的に、旧来の政治・社会運動を補完する新たな運動を展開するための思想として「自閉主義」は十分有効であると結論づけた。
ただし、本論では自閉主義が抱える課題、またそれに拠った運動を展開していくにあたって起こり得る問題や欠点について考察することはできなかった。たとえば、本論で提案した「ある個人(自閉主義者A)が発した個人的な欲望を、別の個人(自閉主義者B)がが言説化するモデル」は、問題提起としては有効でも、資本や国家の側に回収されてしまうリスクが大いにあるだろう。
そのような欠陥に自覚的でありつつ、本論を自閉主義運動の端緒とし、今後更なる発展を試みながら運動の限界や欠陥を探っていきたいと考える。
参考文献
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いま、振り返って。
私が「社会逸脱的な欲望を(政治的な意識を念頭に置かず)吐き出す自閉主義者A」と「その欲望を肯定する形で言説を形作る自閉主義者B」の協働的な社会運動、を現代における有効な運動の姿として示したとき、念頭にあったのは日本や韓国のインターネットにおけるアンチ・フェミニズム運動(と、そのカウンター)でした。
私自身は明確に彼らと異なる立場であり、たびたび批判的な意見を表明しています。しかし、一方でそのムーブメントや訴求力には「いま一番盛り上がってる運動てこれでは……」と素朴に思わせるようなものがあるのも事実でした。欲望を吐露する大衆と、それを言説化する批評家による運動。
そして、私は彼らが攻撃する人々についても、その主張内容に関しては大いに賛同しつつも「そのやり方は内輪にしか向いていないのでは」と思うことがたびたびありました。いわゆる「トーンポリシング」と批判されるような思いを抱いたわけです。実際、この文章の前半部分でもその旨は書かれていたはず。だからこそ、小峰と彼があつかう鷲田の議論を引き「ことばは“ふれる”ものである」という観点を、運動を語るうえで重要なものとして扱いました。(だからといって「お行儀よくやらなくてはいけない」などと言うつもりがないことは、谷川雁のくだりを読んで貰えばわかると思います)。
とはいえ私は、「自閉主義」の運動をアンチフェミニズム運動の肯定がしたくて書いたわけではありません。私の問題意識は「政治や運動の言葉は“思想が強い”から怖い、と感じるひとにとっても、政治や運動の言葉が必要なことはあるはずだ」というところにあります。たとえば私は「フェミニストとかじゃないけど〜」という言葉を枕に、まさしくフェミニズムの問題を語るようなひとに出会ったことがあります。
そのひとは「フェミニスト」の言葉に「ふれる」ことを苦手だと感じる。であれば、そこにすべきアプローチは「フェミニズムは怖くない」と語りかけることでも、ふれることばをソフィスティケートすることでもない。運動の主体を分けることです。彼らに合わせて語る言葉を変えることは運動の強度を損ないます。
そうではなく、ただ彼らの「嫌だ」「辛い」「こうなれば良いのに」という欲望を肯定する。「言語化」する。彼らはそれを拡散する。まったく政治的な意識を持たずに。社会的なもの、国家的なもの、巨視的なもの、そういった個人の範疇を超えた大きなものとの接点を意識することなく、あらゆる個人が個人に閉じこもったままで社会の改良へと参画してゆくような運動。それを、私は「自閉主義」と呼びたいと思っています。今でも。
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