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「自閉」の可能性をめぐって(2/3)

この文章は私が2023年に卒業した際に提出した卒業論文の中盤です。
こちら↓の続きです。


4.モラトリアム人間について


この論考で小此木は、現代社会の若年層を「モラトリアム人間」だと述べているが、これはどのようなものなのだろうか。まず、第一の特徴として挙げられているのは「国家・社会・歴史の流れといった、自己を超えて存在する「より大きなもの」への帰属意識の稀薄さ」 ( 同、p . 9 ) である。

そして小此木は、その特性が「自己中心指向」 ( 同 ) とセットになっているということを指摘する。曰く、意識調査の結果から「現代の青少年(=モラトリアム人間)」は何か熱心に打ち込める対象を求めていたり、自己鍛錬を通じて己を高めていこうという向上心は持っているにも関わらず「より大きなもの」 ( 同 ) 、巨視的な時間感覚を持ち合わせていないがために、自分の存在を長い歴史のなかに位置付けるという発想はもちろんのこと、自分の人生設計に関しても直近のことしかハッキリ考えることができないようになっているように見えるのだという。

彼等は社会や国家といった、遠く大きいものに関しては距離をとるばかりではなく、積極的に向上したいと願う自分の人生に関しても短期的なスパンでしか捉えることができないために、遠い将来に対しては不安や見通しの立たなさを感じるのだと小此木は述べる。 ( 同、 p p . 9 - 1 0 )

また、小此木はモラトリアム人間とされる世代のまた別の呼称である「シラケ世代」 ( 同、 p . 1 3 ) についても言及している。「シラケ世代」はまさしく政治や歴史、国家といった「より大きなもの」に背を向ける世代として語られ、またその特性は「政治の季節」の挫折に由来する、ということが一般的によく言われることであるが、それは単に運動の挫折から権力に対する抵抗への無力感を覚え、管理社会に順応することを選んだという流れではないことを小此木は指摘する。 ( 同、 p p . 1 4 -1 6 ) 。

挫折したかつての運動に込められていた、管理社会・競争社会への反骨心や、それらに飲み込まれんとする抵抗の意は失われているわけではないということだ。

そうではなく、彼等はそういった既存の社会秩序に対して外的には従うポーズを取っているものの、内的には抵抗感を抱くという在り方に移行しているだけなのだという。

そして、その表出こそが国家や社会といった「より大きなもの」から距離を取り、自己中心指向で生きることなのだと小此木は書いている ( 同、 p . 1 6 ) 。

社会や国家といった大きなものに飲みこまれないように、そこから自分を切り離し、自己を失うまいという在り方が「シラケ」という新たな抵抗の形として実践されていると指摘するのだ。ただ、それは政治的なスタンスとして意識的に実践されているわけではない。それらの実践と同時に、彼等は無党派層であり政治に興味がないこと、特に共産党や社会党といったイデオロギー政党に与さないことからもそれがわかる ( 同、 p p . 1 7 - 1 8 ) 。

これは無論、イデオロギーというものが特定の世界観や歴史観に立脚するという特性を持つからだ。ここまででわかる通り、「世界観」「歴史観」なるもの自体、モラトリアム人間には持ちえないものなのである。また、このことは意識調査のなかの「青春とは何だ」に対する回答からもよくわかる。

この回答には研究や学生・政治運動といったものは少ない。一方、回答が集まっているのは恋愛や友情といった私的で消費的なものだ ( 同、 p . 1 9 ) 。 また、このことは社会風俗に対する評価にも通じている。というのも、そのうち肯定的に評価されているものは 1 位から同棲生活、婚前交渉、ポルノ、フリーセックス、トルコ風呂であり、反対に否定的評価が高いのはしごき、暴走族、過激な政治運動、妊娠中絶などだ。ここから小此木は、モラトリアム人間の基本的な特性の一つとして性愛肯定的で、攻撃性否定的だということを指摘する ( 同、 p p . 1 9 - 2 2 ) 。そして、そこから「建設的な攻撃行為」 ( 同 ) さえも否定的に捉えるがゆえに、学生運動やストライキといった政治・社会運動から距離をとるのであろうということを書いている。暴力性に対する忌避感が政治・社会運動離れを招いているという指摘は、既にこの時点でなされているようだ。

論考の結論部で小此木は、モラトリアム人間について「当事者であることを避け、場当たり的に振る舞い、自らの主義主張に一貫性を持たず、帰属もしない」「彼らはある意味自分を大事にし過ぎるために、個人を超えた大きな存在にはコミットしない。そしてその生きる環境そのものがモラトリアム的であり、そこで生きていても常に社会的義務や責任を果たすことを要求されたりはしない」 ( 同、 p p . 2 3 - 2 5 ) とまとめる。まさに「政治や社会といった、個人を超えた大きなものと繋がることを拒む」在り方である。

現代の若年層もまた、小此木の論考が書かれた当時と変わらず、モラトリアム人間的な特徴を持っているといえるだろう。ただ、小此木はモラトリアム人間的な在り方を必ずしも否定的に捉えているわけではない。極端に個人主義的で、社会や国家に対して消極的であるという点に注目し、たとえ社会や国家がパニック状態に陥ろうと、モラトリアム人間であればそれに乗せられて集団心理に駆り立てられることもないというメリットを指摘しているのである ( 同、 p p . 2 6 ) 。

ここに、旧来的な政治・社会運動とは別に、政治・社会運動に対する忌避感を維持しながらも同時にそこへ繋がる在り方を検討することの一つの意義があると考える。運動全体を構成する主体の少なくとも半数が、政治・社会と一定の距離を取ることを志向するような運動があれば、それはセンセーショナルな過熱や過度な先鋭化に陥ることがないのではないだろうか。

次章では、その実現のために必要な、旧来的な運動を補完するオルタナティブな運動、前述したような「政治・社会と一定の距離を取りたがる人々」が参画しうる政治・社会運動を展開するための思想としての「自閉主義」の可能性を検討する。そのために、まずは提唱者の天野が「自閉主義」をどのように説いていたか概括していきたい。

5 .「自閉主義」とはなにか


5 . 1

「そのような人の自己は、なにかの理由で関係にさいして壊れやすくなる。このために、彼らは他者たちとのコミュニケーションを隔て、さまざまな対象とのかかわりかたを変える。そして外の世界からしりぞき、自己のくぼみに隠れて生きながら、そのうちで愛の思いを育んだり、不思議な表現を生みだしたりする。さらに、他者のいない世界をつくりながら、隔てられたものをつなぐためのいくつかの方法を、自覚されたスタイルにしていく。それを、自閉主義とよぶことにしよう」

( 天野、 1 9 9 0 、 p . 6 )


「そのような人」というのは、 J ・ J ・ルソー、 F ・カフカ、 M ・プルーストという三人の作家のことである。天野は「自閉主義」者として彼らを挙げ、それぞれ別の「自閉」の在り方を実践していると考える。「自閉主義」は、この三者がどのように社会や他者と関わり、それを創作と結びつけたかということと、その営みにともなう感性を把握することから始まる。

ただし、本論では三人目のプルーストについては触れない。天野が初めに自閉の可能性を探った「自閉化について - - 「繭化体」と「独身者の機械」」 ( 天野、 1 9 8 6 ) では、カフカとルソーのみが参照されており、また「自閉主義」を政治・社会運動へと展開させるにあたってより重要なのはそちらの論考だと考えるからだ。

以下は、『自閉主義のために 他者のない愛の世界』一章、「他者のない愛の世界」の概略である。これを通して、具体的に彼等がどのように「自閉主義」へと向かっていったのかを整理したい。

まずは、一人目のルソーである。天野曰く、ルソーは「みずからが思う私の真実に、完全に同化しようとする」 ( 天野、 1 9 9 0 、 p . 4 ) のだという。彼は、自分自身の認識する自己と、他者によって認識される自己の姿に深刻なズレを感じる。そして「真実の自己」を守るために、彼は他者や、他者たちによって構成された社会から距離を取る。まずはその自己形成の過程を追い、彼がどのようにして「自閉主義」に至ったのかを確認する。

ルソーを自閉主義者たらしめる最も大きな特徴は、他者性の排除された、同質性的な相手からの愛を求める点である。そのような愛情関係は、彼と幼少期を共にした従兄弟とのエピソードに現れているのだという ( 同、 p . 6 - 8 ) 。 ルソーは彼との関係を「 ( 彼らの間にある ) その愛着は非常に強く、二人が一瞬も離れては活きられないのみならず、離れることがあろうなどとは、想像もしなかった」「いつも離れられない私たちは、お互いに二人だけで満ち足りており、同じ年頃の悪童たちに近づく気もなかった」( ルソー、 1 9 7 9 、 p p 3 5 - 3 6 ) と書き残している。まさに「二人で一つ」とでもいうべき関係を結ぶ彼らの関係は、ルソーのなかの理想的なユートピアのモデルとなったのだろうと天野は指摘する。

しかし、そのようなユートピアは社会的な他者の侵入によって崩壊する。それを象徴するのが、『告白』で描かれた、ルソーの預けられた家の女主人とのエピソードであるという。ルソーはある日、彼女の櫛を折った疑いをかけられ、無実にも関わらず折檻を受ける。この事件は、先のユートピアに生きていたルソーにとって衝撃と憤怒をもって迎えられたことが同書の記述から理解できる。

「感じたのは、憤慨と激怒と絶望だけであった。……二人は一つのベッドのなかで、身を震わせて夢中に抱き合い、息をつまらせた」

「これが私の幼年期の平穏な生活の終わりだった。このときから、私は純粋な幸福を楽しむことはなくなった。そして今日でもなお、自分の幼年期の魅力の思い出が、ここにとまっているのを感じる」

( 同、p-29. 3 0 )


自分を真実の姿で認識しようとしてくれないがゆえに、他者との距離を取ろうとするルソー。他者と自己との関係で発生する認識のズレと、それによって崩壊するユートピア。

「もしも私がそこへ行けば、自分の不利になるだけでなく、自分とはまったく別の人間に見られるというようなことがなければ、私だって人並みに社交界が好きになるだろう」

( 同、 p p . 1 3 0 - 1 3 2 )


自己の内外とで生まれる違和は、ルソーを社会や他人から遠ざけ、譜面の書き写しと作家という孤独な仕事に向かわせたのだという。 しかし、ルソーも完全に他者との交わりを絶ったわけではなく、彼は天野が「他者のない愛の世界」 ( 天野、 1 9 9 0 、 p p 1 3 ) と呼ぶ関係を希求する。

前述した、ルソーとその従兄弟との間に結ばれたような他者性の排除された関係を原初的な形態とする、その特異な愛の在り方について確認したい。

ルソーがもっとも愛を実感するのは、愛するものを目の前にして黙って身動きせずにいるときなのだという。その瞬間、彼は何も触れず、何も発さずにいながら愛する相手の現存を感じることで激情に駆られ、魅惑的な麻痺状態に陥ったという。この受動的で身をゆだねることで起こる甘美な感覚が、ルソーの特異な愛の在り方を最も顕著に表している。

また、この沈黙のコミュニケーションは発展して手紙という形をとって現れ(隔たりはあるものの)、他者とのコミュニケーションを伴う愛を育むが、しかし一定の隔たりを保ち得る文通といえども、当然間接的な対人のコミュニケーションが存在する。それは必然的にうまくいかないリスクをはらむため、ルソーは更に他者性を排除したコミュニケーション、イマジナリーによる愛を志向する。すなわち、ルソーは想像上の愛の対象を生み出し、彼女らと愛の関係を育んでいくことになるのだ。この夢想が彼に小説『新エロイーズ』を書かせることとなり、ルソーの他者性を排除した愛は、ひとつ創作という形で結実する。

そしてもうひとつ、限られた他者との間にルソーの望む自閉的な愛が結ばれることによっても形になる。恋人であったヴァランス夫人、生涯の伴侶となるテレーズと築いた関係性がそれである。どちらの関係も同じく「他者のない愛の世界」 ( 同、 p . 1 3 ) ではあるが、その内情はそれぞれ微妙に異なっていた。

まず、ヴァランス夫人との生活は世俗から遠く離れた一軒家で営まれた。彼女はルソーにとって母のような存在であり、のちに彼女と過ごした時期を思い返してルソーは「私の一生のうちで、私が完全に、純粋に、なにに邪魔だてされることもなく私自身であったこのたった一度の短かった時代」 ( ルソー、 1 9 8 1 、 p . 4 3 4 ) と書き残している。彼が他者との関わりを拒む原因である「他者と自己との関係で発生する認識のズレ」が起きなかったということだ。

最もよく自分を理解し、決して誤解しない相手とであれば、ルソーは安心して繋がることができるのだという。ただし、そのためには社会から遠ざかり、そうでない相手との関係を絶つことも同時におこなわれなければならない。

ルソーにとってヴァランス夫人が「最も完璧に自己を理解する他者」であったとすれば、テレーズは「最も自己と区別のない他者」であったがゆえに、関係を結ぶことができたといえるだろう。

「私はテレーズのなかに、自分に必要な身代わりを見出した」 ( 同、 1 9 7 9 、 p . 3 6 0 ) 。

テレーズはルソーにとって他者性を欠いた存在であり、彼女と結ばれる関係は実質的に、自己との融和や触れ合いだと考えて良いだろう。このように、ルソーは何らかの形で他者を遠ざけることで、ごくわずかな対象との間に自閉的な愛の関係を結んでいた ( 同、 p p . 4 - 2 1 ) 。

二人目のカフカは、ルソーとはむしろ逆に、自己を多様に分裂させていくことを望むのだという。その源流は彼の出自にある。オーストリア = ハンガリー帝国領プラハに生まれたユダヤ人であったカフカの育った社会では、公的な場に限ってはドイツ語が使われ、しかし多くの市民はチェコ語を使って生活していた。カフカはどちらの言語・文化にも同化することなく、同時にユダヤ教会やシオニズム運動にも馴染むことがなかったため、いくつかの民族・文化的アイデンティティを持ちながらもそのどれにも依ることができずに育ったという。

また、家族関係もカフカを自己の分裂へと希求させる。彼はチェコ語を話す小間物商の父と、ドイツ語を話す母の間に生まれ、数年おきに生まれた 3 人の妹がいた。その他に乳母や子守り、料理人や家庭教師が出入りし、カフカは彼らと「戦っていました」 ( カフカ、 1 9 8 1 、 p . 1 7 2 ) と書き残している。彼は自己形成の過程において異なる母語を持つ両親の元に育ち、妹たちは増え、家を出入りする血の繋がりのない他人と関わった。したがって彼にとって家族とは不定で流動的なものであり、民族や文化と同じく、依拠できる確かな形を持たない。

このような理由から、カフカは「自己」を、常態化する変容や、異質なものとの混合をはらむものとして捉えるのだと天野は指摘する。その現れの一つが、人ならざるものに自己を変容させる欲求だ。それについては、彼が恋人のフェリーツェにあてた数ある手紙の一つからも伺える。

「そして、心の底ではおそらく絶えず、ぼくは人間であることを疑っています」 ( 同、 p . 3 9 5 ) 。

最も有名な作品である『変身』をはじめとして、彼の作品には人間ではない異なる何かへの憧れを窺わせるものが多数ある。猿として生まれたが人の言葉を喋るもの ( カフカ、 1 9 9 8 ) 、最終的に社会との交流を絶ってしまうネズミの歌姫(同)、神経症的に巣穴の建造を行うモグラ ( 同 ) など、これらの動物たちはいずれもカフカ自身の姿でもある ( 瓜生、 1 9 8 5 ) 。彼は常に自己を異なる何かに変貌させたいと望む。カフカにとって、カフカ自身は猿であり、ネズミでもあり、またモグラでもある。このようにして、異質なものが複数同居し、常に変容するような自己をカフカは生きたいと考えているのだという。

しかし、それは他者との関係においては往々にして阻まれてしまうと天野は指摘する。彼自身とは異なり他者は彼のアイデンティティを常に変貌するものではなく、固定的なものとして捉え、そしてカフカにはそれが耐え難く感じられるのだ。ただし、カフカは他者との関わりを完全に絶っていたわけではない。「自閉主義」の人々は、社会や他者と距離を取りながらも特殊な形で繋がろうとする。

カフカにとって、その相手は遠く離れたところに住む恋人のフェリーツェであり、彼女とは手紙でのコミュニケーションを通じて交流していた。そして、その中でも彼は自己を絶えず分裂させるのだという。手紙の中でカフカは、自身を幽鬼や死者、亡霊と様々なこの世ならざるものになぞらえながら、さも書き手が読み手の知っている人物 ( カフカ自身 ) ではないかのように仄めかす。

「最愛のひと、あなたにこう書いているのは実は人間ではなく、なにか不実な幽鬼ではないかと思わずにはいられないのではありませんか?」

「ぼくは、ぼくたちの文通のはじめの二か月にそうだった人間とは別人なのです。これは新しい変身ではなく、逆戻りの変身で、おそらく持続的なものです」

( カフカ、 1 9 8 1 、 p . 2 8 1 . 2 9 5 )

同時に、彼は恋人をも自身のように変容し、複数性を持つ存在のように捉えている。

「私は F ( フェリーツェ ) を四つの互いにほとんど結び付かない、私にはほとんど同様に愛らしい娘の姿で知っているのです。最初の姿はプラハに来た時のそれ、第二は私に手紙を書いたときのそれ ( それ自体は多様ですが統一はあります ) 、第三は私がベルリンで会ったときのそれ、第四はほかの人々とつきあい、私が手紙のなかで、また彼女自身の話のなかで聞いているそれです。第三のだけが私にあまり愛情を持っていません」

( 同、 p . 4 4 3 )

カフカは定まらず様々な自己を持つものとして自分を表し、また恋人もそのような存在として捉える。また、彼は決して恋人と直接出会おうとはしない。もちろん、会ってしまえば恋人の中でカフカの自己が収斂してしまうからだ。 このような会わない恋人関係は電信、郵便といったカフカが「亡霊の技術」と呼ぶ諸テクノロジーによって支えられている。奇しくもフェリーツェはパルログラフ ( 口述録音記 ) という音声記録装置の営業を仕事にしており、このことはカフカの関心を強く掻き立てていたという。身体の延長としての機械、それは自己に異質なものを混入させようと望むカフカにとって喜ばしいテクノロジーだったことは想像に難くないと天野は指摘する。 ( 天野、 1 9 9 0 、 p p . 4 - 4 8 ) 。

そして、当然ながらこのようなテクノロジーは現代において更なる進化と発達を遂げている。「自閉主義」が初めて唱えられた 1 9 9 0 年から約 3 0 年経った現在では尚更である。「自閉主義」の現代的展開を考察するとき、これらの諸テクノロジーに注目しなくてはならないだろう。


5 . 2

ここまで、二人の作家の「自閉主義」者としての在り方を追ってきた。しかし本論文で「自閉主義」について考える意義は、彼らのような近代作家の創作を分析し、文学的価値を再考するところにあるわけではない。現代の時代精神にあった政治・社会運動を立ち上げる試みのためである。そこで注目したいのが、「自閉主義」は、現代における資本主義の変容・拡大への反応として捉えることができる ( 天野、 1 9 9 0 、 p .1 4 9 ) という点だ。

諸テクノロジーや政治状況に伴う社会環境の変化、その反応の一つとして現代的な自閉主義は存在する。その考察のため、まずは社会環境の変化がどのようにして起こるのかについて記述しなければならないのだという ( 同 ) 。現代における社会環境の変化は資本主義の促進に伴って起こるが、その原動力となるのは技術革新や労働環境の改善・整備、それを商品やサービスを最大限に生み出すスピードの加速に繋げんとする運動である。この運動はこれまで、蒸気機関の改良に伴う鉄道や蒸気船といったインフラの飛躍的変化、織機や紡績機の登場による軽工業の機械化といった第一次産業革命から、第二次、第三次の産業革命を経て次々と労働と生産の在り方を変えてきた。

その過程では、労働を担う中心的な主体が農民から工場労働者へ、さらには機械技術者やサラリーマンに変わっていく。この変遷はすなわち、労働において扱われる商品が情報やイメージ、対人関係といった物体を持たないものに変わってきたということでもある。これは労働における既存の規範が強制力を失い、かつては必要不可欠なものとなっていた組織的であることや固定的であるといった条件は労働を成立させるために絶対的なものではなくなっていく。しかし、それは必ずしも破棄されるとは繋がらない。それは破棄されるのではなく虚構化し、イデオロギーとしてのみ残る。

しかし、生命維持において、他者と共働的に労働することが絶対条件ではなくなったということは確かであり、そこから退くこともまた可能になる。このような社会的条件が自閉主義者を生むのだという。 ( 同、 p p . 1 5 1 - 1 5 3 ) 。

卑近な例を挙げれば、かつては全員が会社にデスクを持ち、出社しなければ「職場」は成立しなかったが、今やテクノロジーの発達によりリモートワークといった形を取ることも可能になっている。しかし「出社しなければならない」という規範は、仕事を滞りなく進めるための必然性をもったものとしてではなく、虚構的なイデオロギーとして残存するだろう。このような条件からもまた、「自閉主義」はますますの加速が期待できるだろう。

そのような共働的な仕事から退いた先が作家のような特殊な仕事しかなかったルソーやカフカの時代とは違い、更にテクノロジーが発展した現代では多様な仕事でその自閉化を実現できるはずだろう。また、現代の資本主義においては単に生産や売買の領域だけにとどまらず、社会の広い範囲に同様のプロセスを拡大するのだという。たとえば、労働の場が共同体単位で動かなくなったように、地域社会や家庭の共同体的な形もまた絶対的なものではなくなっていくと天野は指摘する ( 天野、1 9 8 6 、 p p . 1 2 3 - 1 2 4 ) 。

例えば、地域経済圏の形成を担う主体の地元資本からグローバル資本への移行や、個人の消費行動においてオンラインが占める割合の増加などが挙げられるという。地縁・血縁的な共同体が生存の絶対条件ではない社会では、自己の形成過程にあたっても他者や外部との関係の必要性が薄まり、他者に対する関係ではなく自己に対する関係を敏感にしていくことになる。そのような敏感な意識を持った存在にとって他者から向けられる視線や、要求されるスタイルは脅威となる。そのため、特定少数の存在をのぞいて他者はなるべく遠ざけられ、商品・サービスや、メディアを通した間接的で隔たった関係によってのみ繋がる ( 同、 p p . 1 5 1 - 1 5 4 ) 。

このことは、先に触れたツイッターにおける運動の問題にも関わってくる。すなわち、インターネット上での理想的なバーチャルな自己と他者との関係は、自己の有り方に介入してくることのない関係である。それに関わらず、アクティビストのことばは「あなたの在り方や認識を変えよう、変えなくてはいけない」と呼びかけてくるような性質をもつ。これはまさに、他者との隔たった関係を実現することが可能なインターネットにも関わらず、その隔たりを無視して自己に変容を促してくる。また、先述した通り彼らのことばは暴力的なものとして「ふれる」ことが往々にしてあるがゆえに、ツイッターにおける運動はその拡大にハードルがあるだろう。

ここまでで、天野の議論を基に現代社会の変容と自閉化の連関を示した。天野の行った分析は 1 9 8 6 - 1 9 9 0 年時点のものだが、現在のところ資本主義の拡大は後退しておらず、むしろ進行の一途を辿っている。であればやはり、現在においても「自閉化」を志向する人々もまた増加し、「自閉主義」を考えることは有意義だと言えるだろう。また、先にルソーとカフカの「自閉主義」的な在りかたを追ってきたが、天野曰く、「自閉主義」には大きく分けて二つの様態が存在するという。

ルソー的な、同質化を希求し同化と融合をはかり他者性を拒むものを「繭化体」( 天野、 1 9 8 6 ) 、カフカ的な、自己を常に変容し異質なものの混在を望み、アイデンティティを固定されることを捉えることを拒絶し他者を遠ざける「独身者の機械」 ( 同 ) と呼ばれるものだ。以下の 6 章では天野の「自閉化について - - 「繭化体」と「独身者の機械」」(天野、 1 9 8 6 )を概略し、この二つの「自閉主義」の様態をあらためてまとめ、政治・社会運動の主体として捉え直したい。


続き↓


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