批評の神様のおっしゃることには 〜『読書について』〜【11月読書本チャレンジ11】
今日は小林秀雄『読書について』を取り上げます。
といっても相手は「批評の神様」、日本の文芸批評というジャンルを開拓した人物として知られている方です。
私の中で「小林秀雄」といえば、サマセット・モームとかバートランド・ラッセルと一緒にひとくくりになっています。高校生のときの現代文と英文読解で、「こいつら、やべえ!」と思った人物、ということです。モームやラッセルについては単に私の英語力が不足していたせいでしょうけど、小林秀雄については日本語ですからね。文章が難解であるという印象は拭えません。
本書にもその話題が出てきます。娘さんが国語の試験問題がよくわからないという。読んでみるとなるほど悪文だからわかりません、と書いておきなさい、と言ったら、実はそれはおとうさん、つまり小林秀雄本人の文章から取ったものだった、というエピソードです。だからとかく書くことはいつまで経っても容易にはならないと嘆いておられるのです。これほどの方が書くことを嘆かれるとは私のようにちょっと最近文章を書き始めたような人間からすると、喜んでいいやら、打ちひしがれていいやら、分からなくなりますね。
本書はそんな小林秀雄の「読書」にまつわるエッセイが集められています。
表紙の帯にある「妙な読書法」とは、
ということのようです。今だったらそれをやっている人も読書家の中には多いのでは、と思います。でも小林秀雄が活躍していた時代は、ちょうど文学が一般家庭でも安価に手に入る消費財となったころであり、文学のイメージが混沌としていたようです。
つまりは、多読です。多読であり、乱読です。系統だった読み方ではなく、目につく物興味ある物片っ端から、ということになりましょうか。したがって、乱読(本書では濫読と表記)は害があるとは言われるが、最初はそんなものだろう、と小林秀雄はのたまうのです。作法とか方法とかそんなのいいから、つべこべ言わずにまずは読め、と。
次の『作家志望者への助言』という文章で、次のような五項目が書かれている。
この「作家志望者への助言」は昭和8年、前述の「読書について」は昭和14年初出の文章です。時代背景が違うということは念頭に置く必要があるとはいえ、令和の時代にも通じることがあると思いました。
全集……これは『百冊で耕す』にも書いてあったことなんですよね。私が持っている全集といえば、シャーロックホームズ全集ぐらい。何か文豪の全集を買いたい気分にさせられます。そして難解でも全部読め、と。それこそ、「あわい読み」で毎日少しずつ着々と読んでいく、そんな堅実さが今の自分に必要かと感じました。
他にも書き言葉と話し言葉についても書かれています。
ちょっとこの部分はよくよく考えないと分からない。誰でも文章を書くことができるので、昔ほどの力が文章にない。語られるのが当たり前でもない。喋るほどの影響力を書かれた文章が持たない、という意味でしょうか。もしそうなら、誰もが発信する今のSNS時代を小林秀雄が見たら、なんと思うことでしょう?
事の是非の問題ではなく、読むこと書くことも時代によって変わることと、変わらないことがあることを痛感しました。いやいや、やっぱり文章難解なのでは? 今、文章を書くには「小学生にも分かる表現で」と言いますが、それだけでいいのかは疑問に思うところもあります。伝えることが一番大事、でも平易で清明を金科玉条として掲げるだけでも芸がない。そう思うのは分不相応なれどやはりそう思ってしまいます。
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