『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件
芦原妃名子さんの『セクシー田中さん』の事件をお伝えしましたが、この事件と関連してよく挙げられるのが、辻村深月さんの小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化事件です。この小説をNHKがドラマ化するにあたり、プロットを見せて欲しいと講談社(出版元)がNHKに要求しましたが、これは実現されず、クランクインの2週間前になってやっと全4話までの準備稿が提示されました。しかも「容認しがたい改変」があるため、講談社がドラマ化は容認できない旨を伝えた、という事件です。
これに対しNHKは講談社を提訴し、これまでの経費を含め6000万円を請求しました。このなかには、職員の出張旅費、タクシー代、携帯電話代、原作の書籍購入代まで含まれていました。結局この裁判はNHK側が敗訴しています(最終的には和解が成立)。
裁判でNHK幹部は、「第三者が口を出せるということを認めてしまうこと自体が認めら れない」と主張しています。しかし原作者や出版元は第三者ではありません。
しかもNHKは、脚本の内容を確認するのは「検閲」であると表現しました。
検閲とは、公権力が創作物等を精査することです。表現物を公にしても問題ないかを検査することです。原作者や出版社に著作権があることが全く考慮されていません。著作権者が内容を検査するのは当然のことであり、検閲とは全く趣旨が異なります。
このようなNHKの対応を見ても、わが国では著作権者がいかに軽視されているかがわかります。
このような主張は、原作をドラマ化すると、そこで別の新たな著作物になるとの錯覚を与えてしまいます。しかしドラマ化、脚本化はあくまで原作があるからこそを行えることです。原作者や出版元を蚊帳の外に置いて、ドラマが独り歩きするわけではありません。
『キャンディ・キャンディ』事件では、原作漫画が生みの親であり、その映画を「育ての親」と表現しています。この例えは、「生みの親が育ての親の子育てには口を出せない」から、「原作者もドラマ化された作品に口を出せない」との誤解を与えます。
しかし、子育てとドラマ化は本質が異なります。子供は成長して別の人格を持っていき、親よりも子供自身の名前で活動していきますが、著作物は原作者の名前が一生ついて回る創作です。したがって著作物がどのようにドラマ化して成長していくかについて、原作者は見守りたいという希望を持つのは当然です。
著作権は人格権の保護が大きな柱となっており、原作者の人格権を尊重するためにも、原作者の意見を交えたドラマ化が望まれます。
『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』に関するNHKとの裁判の判決に対する講談社の見解(講談社、2015年4月28日付)
https://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/20150515zerohachi.pdf