定期試験の成績に持てる力を発揮する秘訣はここにある(序の序)

 公立の小中に通う息子たちは、今日が始業式(+入学式)だった。
短いようで長かった春休みは、やっと終わった。
 
 長男は来年、高校受験なのに、これまでの怠けが祟って、過去の内申のままだと、志望している高校どころか、偏差値的に言えば、本人も(親も)信じられないほど低いところしか行けない可能性が高いことを、ある塾の体験授業に先立つ面談で明らかになったことが、この春休みの最大の収穫(と言っていいのか)だと思う。

 父である私も、これまでそういう「予言」を息子にしてきたが、内心は大げさに言っていたつもりだ。だが、それが正しい「予測」であったとは、正直、信じられなかったし、信じたくもなかった。
 
 その道のプロの先生に言われて、初めて彼も青ざめて、モーターにスイッチが入ったらしく、その日以後、私の言うことを、これまでよりはよく聞く(=従う)ようになった。「従う」というのは、よくない表現だとはわかっている。しかし、思春期の青年にとって、その日頃の口の聞き方を想像してもらえたら、おおよそ「従わないこと」が美徳と思っているのか、たまに素直な返事をしたら、おお、そういう表現もしたくなるものなのです。

 私は、専門職に理論的なことを実践を踏まえてお伝えすること=研修、にも長く関わってきたので、教えることが好きだし、たぶん、わりと得意な方なのだろう。最初に勉強したのが、認知心理学であり、当時は、まだその心理学が認知されていない頃に、師匠にあたる先生は、教育方法学講座に着任されて、いろんな学問分野の成果を盛り込みながら手探り的に確立されていった。認知心理学の草創期に学び、研究できたことが、その後の研究や仕事だけではなく、生き方にまでもたらしてくれたことは、大きい。

 というか、すべてそれが基本になってしまった(つまりある意味では一色)ので、「大きい」というのが適切なのか、わからない。
 
 それはさておき、そのおかげで、いわゆる学校の勉強のことも、教えるのは得意な方だが、それが自分の子どもとなると別だ。小学校の頃に見ていたことがあったのだが、「なぜ、これがわからないのだ!」と段々と腹がたってくるので、以後は、勉強の中身は関与しないことにした。そして、ついつい生活態度を含めた親としての指導も一緒に、手薄になってきたように思う。

 しかし、冒頭のショッキングな宣告を共に受けた者として、長男には、「なにか」はしてやらねばならない。そこで、この春休みは、学力をつけるには、まず「生活態度」をまず改めるように伝え、それを支援することとした。わかりやすく言えば、起きる時間と寝る時間、勉強をする場所(家にいたらだらけるので図書館にいくこと)などの管理をさせた。

 また、新しい知識を取り入れるのが勉強ではない、むしろ、出来ないことを出来るようにするのが勉強なのだよ、ということで、直近の定期テストで「間違った問題」の原因の分析と、それに基づく対策をかくノートを作らせた。

 以上の2つを、朝は計画を、夜は進捗を報告させるように毎日、させてみたのだが、そこで痛感したことがある。そして、これがこの記事で伝えたかったことである(長い前置きとなりお許しください)。

 自分の行動を人に(この場合は親である私)説明する際の下手さは、試験問題を解く時のまずさとも通じるということである。

 同様に、試験勉強の仕方のまずさは、試験の結果の分析の下手さから十分に読み取れる、ということである。

 なぜか? 

 一方は会話であり、他方は試験である。また、片やインプットの勉強であり、片やアウトプットされたことの振り返りである。

 なのに、なぜ通じるているのか? 

 私に言わせれば、答えは簡単だ。

どちらの作業も、「頭の働かせ方」という点では、同じだからである。

少し説明を補足すると、いずれの行為も、コミュニケーション(通信)であり、その内容を整理するためのプロセッシング(情報の処理)だからである。

 そのことを痛感した私は、長男に、そのことを丁寧かつ詳細に説明し、彼が理解したかどうかを確認するために、毎日、言わせてみた。すると、回答する内容が、だんだんと私が伝えたことと近づいてくるようになった。

 このnoteというアプリというかソフトというのか、このシステムは、本日、ある友人から、私にあっているから、ぜひ使ってみたら、とのことで1、2時間ほど前に聞いたものだ。

 毎日、1回は書いてみてください、と言われたので、その方が言われるのだから、それを守ってみることにした。

 後は、テーマである。今、まさに今、考えていることでいい、とのことだったので、息子の指導、いや支援について書いてみたわけだ。

 今日の記事は、序論のさらに序である。なにせ、さっき、知ったばかりのソフト?だから、詳細はこれからだ。  

 ところで、最後に気になることを1つ。そもそもnoteというのは、備忘録である。であれば、本来、これを書くべき者は、私ではなく、長男のはずである! ただ、もう寝ているし、そもそもPCのキーボードをスラスラとタイプできない。

 なので、彼に代わって私がnoteしておこう。そして、後で彼がスマホか何かから読めるなら読んで、復習させよう。そこでやっと意味がわかるのかも知れない。大人になってもこれが残っていたら、少しは、親の当時の気持ち(つまり、今)がわかり、さらに彼の子どもにも形をかえて、伝えていこうとした時のネタ帳になるかも知れない。

 親というのは、いつになっても、子どものことを、つい一番にしてしまう存在だ。きっと私の親も、そうだったのだろう。なかなかそうは感じ取れないが、頭で推測すれば、そうに違いない。