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2021.8.27 血の繋がりではなく、他者との繋がりによって生き続ける



女性 51歳 専門学校教官

「SNS経由で誰かと会うのは私の世代では中々ないことなので、ドキドキしながら来ました。

今は専門学校の教官をしています。3年前から教官になりました。教官になると担任業務がありまして、技術の先生というよりはカウンセラーのようなところがあって。毎日学生と面談をして、心折れそうな若者たちを掬い上げるという。専門学校は技術を教える場だけど、実際は授業と精神的なフォローが半々です。2時間くらい面談をして、泣いている子の話を聞いて元気になってもらったり。皆さん、いろんな背景の方がいます。家庭でご両親のDVがあって逃げるように家を出て退学したり。働いて自分で貯めたお金で学校に通っているのに、そのお金を親に使い込まれてしまったり。いろんなご家庭があっていろんな事情があって。それを把握してフォローしてあげるというお仕事です。

入学時の面談の時に痩せていて、高校時代にいじめられていて人と話すのが苦手、というような子が、学校にいる間に少しふっくらして、世間話をするようになってちゃんと就職もして、笑顔が絶えない人に変わっていったんですよ。それを見ていて、高校までは辛い人生だったけれど本当に良かったなと。そういう人をたくさん見れるのがとてもやりがいがあります。

教官になろうと思ったきっかけがあるんです。昔、母が末期癌になって「地元に戻って来てくれないか」と言われたんです。その時私は東京で夫とフリーランスでバリバリ働いていて、フリーランスならどこでも働けるよね、と地元に戻ったんです。旦那さんも私の母のことが大好きだったので行ってあげようと。娘が生まれたばかりの時でもありました。東京では結構稼いでいたけど、ところが地元に戻ったらお仕事が何もなくて。私も地元にあまり知り合いもいなくて、SNSもスマホもない時代で営業をするのも本当に大変で。生活が苦しくなって、母の介護をしないといけない中で貯金がどんどん無くなってきて。旦那さんが先に専門学校の仕事を見つけてきたのだけど、「あなたの方が向いてるかもよ」と言われたんです。

私は元々「先生なんて格好悪いから教員免許は取らない。私はかっこいいデザイナーになるんだ」と思っていたけれども、苦肉の策で教えに行ったらすごく楽しかった。自分に合っていたんでしょうね。教えることで母の介護の気分転換にもなるし、若者に接する初めての機会で楽しくお仕事していました。

そうこうしているうちに母がホスピスに入ったんです。ホスピスに行ったらほとんどの人が30日位で死んでしまう。病院に通うことがルーティンになっていて楽しかったのに、突然母から「私は30日後に死にます」と言われたことで気が動転してしまった。その時に旦那さんが母に「妻が娘を育てる姿を見て、妻を育ててくれたあなたにすごく感謝している。あなたのことが大好きだから、家族皆であなたのところに来ることにしたんだよ。」と。そう伝えたら、母はけらっと笑って「そんな大したことはしていないよ。私も自分の母にしてもらったことを娘にしているだけだから。」と。おばあちゃんがいて、母がいて、私がいて、娘がいて、繋がって幸せいっぱい、という。生活は厳しかったけど地元に来て良かったなと思いました。

母はホスピスに入ってちょうど30日で亡くなりました。母との最後の会話があったことで、点と点が線になって、満たされた気持ちで見送ることができました。私が亡くなっても娘に何か伝えている気持ちなので、怖くないというか。今日履いているのも母のスカートなんです。

でも、それから1週間くらいして、渋谷の松濤で家族惨殺事件があったんです。私は家族の繋がりで幸せなのに、そうじゃない家もあるんだと。私が導き出した幸せの法則は全員にはマッチしないんだと。そういえば、お子さんがいない方は点と点の線が繋がらないんだなとか。

母を看取って地元から東京に戻る時に、学生たちが寄せ書きを書いてくれたんです。その中で一番病んでいた子が「僕は小中高、親もどの先生も大人として納得がいかなかった。自分は大人になるのが嫌だったけど、先生に出会って、大人になってもいいかなと思いました。」と言ってくれて。その時にモヤモヤが取れたというか。血の繋がりではなく、他者との繋がりによって私がここに生き続けることができるんだと思った時に、この仕事をずっと続けたいと思ったんです。その学生の一言がなかったら先生を続けていなかったかもしれない。

他者との繋がりは皆に当てはまるかもと思います。私が彼らに次へのステップのヒントを伝えることができたら、親に恵まれなくても彼らはひとり立ちできるかなと思っています。

私には父もいたのですが、父とは幼少期から心のこもった対話をした記憶がないんです。家庭内にいびつな関係の人がいるという事があって、それでも逞しく生きてこれたのは母のおかげです。もし両親ともいびつだったら、みなさんきっと困っているだろうと。逆に、いびつな父がいることで気が付くヒントになりました。丁寧に意見の違いを擦り合わせたら揉めないけど、それが父とはできなかった。そこに気付かされたのは、専門学校や子育ての経験からですね。」


この記事はBE AT TOKYOのプロジェクト、【BE AT TOKYO DIARY】で制作しました。

※感染症等の対策を十分行った上で取材しています。


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