愛しい孤独へ

初回の記事で書いたように、私のnoteには決まりがない。
「まとまった文章が書きたい」という理由で衝動的に始めたのと、何か一つでもルールを決めてしまうと、私の性格上それをずっと守らなければならないという意識が生まれてくるためである。例えば、noteでは自粛生活に役立つことを発信していこう、と決めてしまったら、仕事のことや趣味のことが書きたくても「いや、でもnoteはお役立ち情報を書くって決めたし…」と思ってしまって、書くのをやめてしまうのだ。
なので、「ルールなし!」と決めた。
決めたはいいものの、今度はルールがない故に手探り状態が続いている。

というわけで、今日も手探りしながら書いていく。やまなしおちなしいみなしかもしれないが、雑記なのでゆるしてほしい。
それでは、しばしお付き合い願う。
(ちなみにこのねちっこい文体は私が一番気楽に書ける文体だ)


今年の目標の一つに「半年かけて部屋を改造する」というものがある。
前回の記事でも書いたことだが、現在の社会状況の他にも、色々な要因が積み重なったこと、そして、生来のだらしなさもあって、ここ数年間、家の中でもっとも優先度が低くなったしまったのが自室だった。
寝るだけの部屋になったいた。正確には、ベッドのある物置と化していた。親の介護を始めてからというもの、部屋で一人で過ごす、という幸せが遠のくばかりだ。親のことは大好きなのだが、私は1日の間に誰にも干渉されない幸福な孤独を味わう時間がないと辛くてたまらない人間なので、ストレスは1円玉単位で貯蓄されていくばかりだ。1円だからといって軽く考えていると、ある日突然ストレスでプツっときてしまうので、読者諸君もお気をつけいただきたい。

ところで、世の中には、この「誰にも干渉されない幸福な孤独」を感じれない人が多いらしい。
正直、コロナ禍になって、私が一番驚いているのは、一人が辛いという人が予想より多かったことだ。
誰と会食をした。誰と旅行に行った。誰と宅飲みをした。
良いか悪いかの問題はここでは議論しないが、その話を聞いた私が思ったのは、「本当に一人が苦手な人っているんだ」ということだった。
私はといえば、こんなことを書いているのでお察しの通りだが、ほとんどのことは一人でできてしまう。一人でランチに行くのも好きだし、旅行もカラオケもショッピングも観劇も美術館も映画館も一人で行ける。一人で映画を見に行くことに関しては、私のチョイスがマイナー気味だからでもある。「好みに合わない映画のために友人に1800円も自腹を切らせたくない。だったら一人で行く」というスタンスなのだ。
ただ、朝8:30から三島由紀夫原作の映画やヨルゴス・ランティモス作品などを見るのが苦痛でない人がいたら是非お友達になってほしい。

一人を楽しめないことが悪いと言いたいわけではない。
けれど、誰にも干渉されない幸福な孤独の時間は、想像するより数倍は幸せで、快適なのだということは知ってほしい。

まず、日本人の美徳である気配りをしなくていいのが大きい。
もちろん、反道徳的なことをしても良いということではないし、人と一緒にいるときは気配りをした方が良いに決まっている。
だが、気配りというのは、人が思っている以上に負荷のかかる作業なのだ。
誰かと何かをすれば、そこには必然と会話が生まれる。話題作りをしなくてはいけないし、相手の気分を察して気の利いたことを言わなくてはいけない。
先程の映画のように、こちらが誘ったことが、相手の好みから外れていた場合、機嫌を損ねないようフォローをする必要も出てくるだろう。
一人で行動すると、そういった、人と会うことで発生する雑務のようなものが一切ないのだ。
雑務がなくなるとストレスが軽減される。その日その時の言動を自分本位にでき、だんだんと心に余裕が出てくる。心に余裕ができると、道ゆくすれ違う他人にも優しくできるのだ。
例えば、一人でランチをした後、配膳してくれるスタッフやレジ打ちの人に、自然と「ありがとう。ごちそうさま」と言えるようになる。
フリーター時代の経験談だが、接客業をしていると、たった一言の挨拶で「あの人はスマートな客だな」と思える。
なので、心に余裕がある時は、どうか恥ずかしがらずに挨拶をしてあげてほしい。
ただ注意していただきたいのは、会話のキャッチボールを期待してはいけない、ということだ。相手は仕事中なのだから。

脱線したので元に戻そう。
気配りという小さなストレスを溜めないということの他に、一人でいることの楽しみとして、思考や作業に集中できるというのもある。
noteユーザーの読者諸君なら身に覚えがあると思うが、こうして文章を考えるときなどは、知ってる人の気配がない方が冴え渡るのだ。
文章について考える時以外でも、たとえば本を読んだり、資格などの勉強をしたり、ハンドメイドで何かを作ったり、流行りのマインドフルネスを試したりするときも同じだと思う。
現在は外出自粛が出ているので難しいかもしれないが、一人で行く美術館や博物館は、集中できるという点において群を抜いて利点ばかりだ。誰かを連れ立って行くのももちろん楽しいが、鑑賞ペースを相手に合わせたり、とやはり気配りが必要になる。そうなってくると、目の前の鑑賞物から読み解けるもの、感じるものに集中できなくなってしまう場合も少なくないだろう。一人で行く芸術鑑賞は、作品世界に深く入り込め自分の中に落とし込めるという、インプットに最適なので、是非経験して欲しい。感想を言いたくなったらSNSを活用しよう。

そういえば、この個性至上主義が乱立した21世紀おいて、いまだに女性の一人旅が恥ずかしいものだという認識があったことにも驚いた。
逆に聞きたい。何が恥ずかしいのか。見たいもの、食べたいもの、やってみたいことがあれば、やってみたら良いではないか。女性の自立はウーマン・リブで確立したのではなかったのか。
せっかく、普段は触れれないものがある場所に行くのだから、それを全身で満喫すればいいのに、と思うのだけど、なかなか理解は得難いようである。
「旅行先で、食事の時に一人だと寂しい」というのが一番大きい理由らしい。美味しさを共有できないのが嫌なのだろうか。それとも一人で食事をするというのが惨めに思えるのだろうか。
孤独を愛する私には理由はよくわからないが、読者諸君の中に「一人の食事は辛い」と思う人がいるのであれば、是非試して欲しいのが「取材気分になること」だ。
「今度、友達or恋人と来るときに紹介できるお店探し」などの勝手な理由(脳内設定とも言う)を作る。noteユーザーであれば「記事に書くor作品の題材にするお店探し」でも良い。そうすると、だんだんと「この食材はこれと合わせるとこんな味になるのか」とか「この店の雰囲気や客層ならこのシチュエーションの時に活用できるな」とか、料理やお店そのものに視点が動いていく。
状況を楽しむ、という気持ち一つで、一人の時間というのはいくらでも楽しくなれる。

思うに「一人が辛い」という人は、一人でいるときに何をすれば良いのかがわからないのではないだろうか。
それはそれで、幸せであり、不幸でもあるな。と私は思う。
常に誰かがそばにいて、行動を共にしてくれていたのだろう。それは同一人物ではないかもしれないし、親や兄弟、複数の友人かもしれない。
あるいは「これがしたい」と思った時、誰も反論する人がいなかったのだろう。誰かしらが賛同してくれて、行動を共にしてくれていたのではないだろうか。
それは幸福なことかもしれないが、逆を言えば、一人で何かをする、という経験を積んでこなかったとうことだ。
経験に勝るものはなし、とも言うように、活用の方法さえわかれば、孤独は全く苦ではない。
孤独に慣れていない人は、是非とも、これを機に、一人の経験を積んで欲しい。

おすすめはやはり一人映画だ。
といっても、一人の経験が少ない人が、いきなり映画館へはいけないと思う。
そこでやってみて欲しいのが、スーパーに行って、乾物コーナーか製菓コーナーにあるポップコーン用乾燥とうもろこしを購入することである。
それを買ってきて、小鍋にかけてポップコーンを作る。あつあつのポップコーンを片手に、家で、DVDか動画サービスで映画を見る。
見逃していた作品だったり、人と行くときは外しがちなタイトルを選ぶのも良い。
何度も見たお気に入りの映画をもう一度見るのも楽しいと思う。
「家で一人で映画なんて」と思うのであれば、映画館でのことを思い出してほしい。映画館に行っても、上映中は皆ひとりだ。日本の映画館はおしゃべりを許してしていないので。
なにより、人目を気にしなくて良いのだから、思いっきり泣いて笑える。とても快感で、クセになる。

「誰にも干渉されない幸福な孤独」の良さは語り尽くせないので、一旦この辺で区切りをつけよう。


さて、私の前には間取り図がある。部屋の改造のためにありとあらゆる寸法を計って記入した間取り図だ。
私の部屋は備え付きのクローゼットを入れて6畳。自由にレイアウトできるスペースだけでいえば約5.5畳だ。
決して広くはないし、ベッドなどの大型家具はすぐに買い替えることができないので将来の目標として後回しにすれば、部屋の改造はそこまで大変ではないだろう。
壁紙とカーテンは替えたい。調べてみると、今は既存の壁紙の上から貼っても建築的に安全な壁紙があるらしい。これを使わない手はない。
それから、長年捨てるに捨てられなかったものたちも、この機会に感謝を込めて処分しようと思っている。
以前ちらりと書いたが、私の両親、特に父の方は戦後すぐの生まれのため、ものを捨てることに大変な抵抗感があるらしい。もののない時代を知っているので、もので囲まれていると安心し、幸せなのだという。

私はミニマリストではない。
部屋の改造をすると言っておきながら、昨年末にレコードプレーヤーを購入したぐらいにはミニマリストに向いていない。
しかも、ものを大切にしすぎる両親の下で育ったためか、割と雑に扱っているのに、異様なまでにもの持ちが良い。もう30も半ばだというのに、高校時代の指定コート(我が母校は私立だったため冬用コートが指定だった。靴下も指定だった)が新品同様の状態でクローゼットから出てきたのには流石に自分でも驚いた。本当に新品そのもので、ほつれもないし、暖かいので、この冬は大変お世話になっている。コシノブランドなので30代が着てても大丈夫だろ。

しかし、そうやって大切にすればするほど、5.5畳の私の城は緩やかに過去で浸水していってしまう。
幸福な孤独を満喫するためには「今の私に必要なもの」を選別し、「理想の一人時間」について明確にする必要がある。

自分が心からリラックスできる場所を作るのは、今の自分自身と向き合うことだ。
何が好きで、何に安らぎを感じ、何に集中できるのか。
考えてみると、「これ!」と即答できるものがほとんどない。

私は、私のことをよく知らないまま、30数年生きてきたのかもしれない。
そう思うと、まるでライフプランを見直しているような気になってきて、ますます部屋の改造に力が入る。

手始めに、上記した壁紙とカーテンを選ぶことにした。
カーテンはまだイメージが見えてこないが、壁紙の色は決まっている。
全面ネイビーにするのだ。
何がきっかけか思い出せないが、昔から青い部屋というのが大好きだった。落ち着いていて、大人っぽく、クラシックなようでモダン。私は喘息を患っているせいで、幼い頃から昼間より深夜の方が親しみがあるから、そのせいかもしれない。
実は先達て寝具を全てネイビーの替えたところだ。ベッドフレームがダークブラウンなので、もう20年ほど共にしているベッドなのに妙な高級感を漂わせてきてとても満足している。

残りの部分はどうしようか。

専門家ではないので、肌感覚の話になるが、なんとなく、今年も年末ぐらいまでは自粛生活が続きそうな気がするのだ。気がするだけで、春先より始まる予定のワクチン接種によって、秋には解放されているかもしれないが。

見通しのつかないことに囚われるよりも、今目の前にあることの満足度を少しずつ向上させていこうと思う。
部屋をネイビーで染め上げたら、私はきっと今より数倍幸福になれるし、部屋の居心地も良くなる。
ネイビーの部屋では映画を見たいし、レコードプレーヤーでジャズを聴きたい。
趣味でハンドメイドアクセサリーも始めたのでその作業もしたいし、勉強もしたい。
noteに限らずもっと文章が書きたい。
旅行が解禁されたら、たくさん出かけて、帰ってききたら、充実感を抱えて深く眠りたい。

やりたいことはたくさんある。それが実現できる部屋作りは、それそのものが面白い。
人生を豊かにするために、私にとっての幸福な孤独がなにか、今一度、真摯に向かう。

孤独よ。私は君と、なんでもできる気がしているよ。

<了>

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